×

気になるキーワードを入力してください

SNSで最新情報をチェック

初代の交通事故で一部のレシピが不明に

順風満帆だった「蜂屋」ですが、突然大きな事件が起きます。それは東京オリンピックが開催された1964年。初代の枝直さんが交通事故にあい、記憶喪失となったのです。初代のみが知る一部のレシピは、戻らぬ記憶のなかに包まれてしまいます。やがて二代目となる息子の直純さんは、まだ15歳でした。

「蜂屋」創業者の加藤枝直さんと奥さま

直純さんは13歳から「蜂屋」の手伝い始めていて、旭川を離れていた大学時代を経て、卒業した1972 年から「蜂屋」で正式に働くこととなりました。

直純さんによると、「私は父のように何か新しいことを生み出すというよりも、父が築き上げた歴史とお客さまをひたすら守ってきました。父が偉大だったこともあり、守るということも本当に大変でしたが、おかげさまで父の代から衰退することなく、お客さまにお越しいただけたことは、自分の自信にもつながりました」とのこと。

8年がかりの誘致交渉が実り、ラー博に出店

そんな「蜂屋」が、ラー博に出店したのは1999年です。しかし、私たちは1991年に初めて訪ねて以来、すぐに誘致交渉を始めました。設立趣旨にはご理解いただいたものの、人員面や特殊厨房設備などの問題もあり、幾度となく通うも1994年のラー博開業時の出店はかないませんでした。

けれども、二代目・加藤直純さんの長男・信晶さんが、ちょうど高校を卒業するタイミングで進路を検討の折、「ラー博でやってみたい」という思いをうかがい、その後はとんとん拍子で出店が実現しました。

二代目の加藤直純さん(左)と、長男・信晶さん(右)=2005年

ラー博のほうも、1994年の開業時から営業していた居酒屋を閉めたこともあり、「蜂屋」の開業で、館内のラーメン店は8店舗から9店舗になりました。誘致交渉から8年がかりの、念願の出店となりました。

次のページ
ラーメン界のエジソン?蜂屋の功績
icon-next-galary
icon-prev 1 2 3 4 5icon-next
関連記事
あなたにおすすめ

この記事のライター

おとなの週末Web編集部
おとなの週末Web編集部

おとなの週末Web編集部

おとなの自動車保険

最新刊

全店実食調査でお届けするグルメ情報誌『おとなの週末』。2025年8月16日発売の9月号では、東京で食…