901運動の頂点
1989年、1990年の両年は、各メーカーから歴史に名を残す名車が多数登場しているが、R32GT-Rはその最高峰に君臨するモデルだ。ただ最高峰のGT-Rだけが凄いのではなく、高性能をいかんなく発揮できたのは、ベースとなっているR32型スカイラインが秀逸だったからだ。
日産は”1990年代に世界一の運動性能を実現する”という『901運動』を社内スローガンとして掲げ邁進。その結果生まれたのが、4輪マルチリンクサスペンション、後輪を操舵するHICAS、スーパーHICASで、日本車の常識を覆すハンドリング性能を実現。その頂点に君臨したのがR32GT-Rだったのだ。
開発責任者は伝説の伊藤修令氏
R32GT-Rを含めたR32スカイラインシリーズの開発責任者は伊藤修令氏。修令と書いて”ながのり”と読むのが正式なお名前なのだが、日産社内、業界では”しゅうれい”と呼ばれている御人だ。伊藤氏はプリンス自動車の前身である富士精密工業に入社し、スカイラインの生みの親と言われる櫻井眞一郎氏の下でスカイラインのシャシー設計を手掛けてきた伝説のエンジニア。
プリンスと日産が合併後もスカイライン、ローレルの開発に携わると同時に、日本のミニバンのパイオニアである初代プレーリー、初代マーチを手掛けてきたが、7代目スカイラインを手掛けていた櫻井氏が病に倒れたことにより、その開発主査を引き継いだ。しかし、伊藤氏が引き継いだ時には、7代目スカイラインの開発はほぼ終わっていて、実質ほとんど何も手を付けることができなかったという。
7代目の屈辱場バネになっている
その引き継いだ7代目スカイラインは、対マークIIを意識しすぎて豪華に大きくなった代償として、既存のユーザーが離れてデビュー時の評価は目を覆いたくなるレベルだった。櫻井氏がほぼすべての開発を担っていたが、その批判は開発責任者という立場の伊藤氏に集中。自動車雑誌『ベストカー』の6月26日号では、徳大寺有恒氏を相手に、「R32スカイラインの開発責任者となることが決まった時は、7代目で味わった屈辱を晴らしたい気持ちでいっぱいだった」と吐露していた。
伊藤氏は7代目の登場後、スカイラインに求められているのはマークIIの後追いをするのではなく、走りに特化することであると痛感。そしてそのことがスカイラインを再生する一番の近道という考えでR32スカイラインを開発したという。例えば4ドアセダンのリアの居住性などについては、走りのために犠牲になることはいとわない、という割り切った姿勢で開発に臨んだことも話していた。
そう考えると、屈辱的だったとはいえ7代目の開発責任者になったことが、R32という名作を生み出す原動力となっていたのは間違いない。
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