三線軌条の誕生と旧軍施設の一時使用許可
省線逗子駅から金沢八景の地にあった海軍航空技術廠支廠までの軍用線(海軍航空技術廠支廠引き込み線)が、いつから使用を開始したのかといった具体的な時期はわかっていない。これは、先の大戦が終息すると同時に”関係書類”は焼き捨てられたため記録は消失しており、1944(昭和19)年9月に神武寺駅の移転が完了したことが、わずかな記録として残るのみだ。おそらく、この時期以後に軍用線による貨物輸送が開始されたものと思われる。また、この軍用線(引き込み線)の終点が、支廠敷地内にあったのか、どこに荷卸し場があったのかなど不明な点も多い(後述)。
当時の東急逗子線の線路(レール)幅は、京急電鉄となった今も変わらない1435ミリだが、これに対し軍用線は省線(現JR)と同じ1067ミリと線路幅が異なっていた。共同使用区間となっていた金沢八景駅構内は、用地が狭隘であったため、軍用線を単独で敷設することができなかった。このため、異なる二つの線路(レール)幅を有した特殊な「三線軌条」と呼ばれる線路構造で建設することになった。
戦後、海軍航空技術廠支廠は、GHQ(第8米軍)および大蔵省東京財務局(当時)の管理下となり、総面積132万平方メートルを有していた。東京急行電鉄(大東急)は、1946(昭和21)年5月までに大蔵省及びGHQから、この支廠施設を一時期的に利用する許可を受け、空襲で被災した鉄道車両の修繕を目的とした東横興業横浜製作所(→のちの東急横浜製作所→東急車輛製造)を発足させた。
1946(昭和21)年9月から、戦災車両の受け入れを開始したが、この当時は湘南線(現・京急本線)と旧支廠(工場)とを結ぶ引き込み線がなく、コロを使用して被災車両を地上運搬したと記録には残される。湘南線から工場への引き込み線が完成したのは、1947(昭和22)年のことだった。当時、こうした戦災車両の復興事業に対し、米軍神奈川軍政部からは再三の勧告や非難を受けたという。




