敷設免許の買収と幻に終わった新線計画
省線の長野原駅と草軽電気鉄道の嬬恋駅との間で重複申請となっていた鉄道免許申請は、東京急行電鉄の傘下となっていた草軽電気鉄道と上信鉱業の間で、1947(昭和22)年10月に買収交渉(譲渡契約)が成立し、その権利は草軽電気鉄道が手中に収めた。その額は、東急側が60万円を主張したが、上信側は150万円を要求した。結果、その中間額で妥協したとされる。
これにより、吾妻高原の鉄道建設および観光開発は、終戦後の復員軍人や被災者、海外引揚者などの失業問題の解決と、同地域における食糧増産を目的として、いわば国策に沿う形で進められた。そしてなにより、省線長野原線の開通によって草津温泉への湯治客が減少していた草軽電気鉄道の救済と再建を図るためでもあった。
「東急吾妻高原線」ともいうべき全線65kmにもおよぶ新線建設計画は、渋川駅(群馬県渋川市)を起点に、省線の線路をそのままに長野原駅(現・長野原草津口駅)へと進み、そこから草軽電気鉄道の嬬恋駅を経由して新鹿沢温泉へと至る23km100mを、レール幅1067mmの電気鉄道として建設費2500万円を投資して新設するというものだった。子どもの頃、新鹿沢温泉の周辺をハイキング中に「東京急行電鉄社有地」の看板を見たことがあった。当時は、なぜこんな山のなかに東急の看板があるのかと不思議に思ったものだが、まさかこの地で東急が鉄道の建設を目論んでいたことなど、想像すらできなかった。
この新線計画では、既存の観光ルートを見直すことも検討され、草軽電気鉄道の軽井沢駅~北軽井沢駅間25km800mを廃止することも東急本社の考えにはあった。これらは、「東京急行電鉄長野原新鹿沢間地方鉄道敷設免許申請」として、1946(昭和21)年5月27日に当時の運輸大臣あてに提出された。この文書には、途中駅の名称や建設予定地、どういった観光施設と連携する計画だったのかといった資料は添付されていなかった。
東京急行電鉄としては、戦後の混乱期という状況のなかで、どうにか省線(国鉄)から長野原線を払い下げか貸下げにより自社線に取り込むことを目論んでいた。しかし、省線(国鉄)はそれを拒否した。そこで東京急行電鉄は、1948(昭和23)年6月にいったんこの免許申請を取り下げて、あらためて草軽電気鉄道から同じ内容で免許申請を行ったが、やはり省線(国鉄)の払い下げは認められなかった。
その後、この鉄道計画は夢と消えたが、五島慶太氏は長距離バスの運行をはじめ、上田丸子電鉄(現・上田電鉄)やバス会社を次々と買収して、上信越エリアの観光開発を進めていった。
文・写真/工藤直通
くどう・なおみち。日本地方新聞協会特派写真記者。1970年、東京都生まれ。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物に関連した取材を重ねる。交通史、鉄道技術、歴史的建造物に造詣が深い。元・日本鉄道電気技術協会技術主幹、芝浦工業大学公開講座外部講師、日本写真家協会正会員、NPS会員、鉄道友の会会員。






