1946(昭和21)年の元日に発布した詔書で、「天皇を現御神(あきつきかみ)とするのは架空の観念である」と、昭和天皇みずからが“神性”を否定した。いわゆる「人間宣言」である。こうした経緯のなかで、昭和天皇の発案により行われた全国ご巡幸は、1946(昭和21)年2月から1954(昭和29)年8月まで行われた。では、戦後まもなくのご巡幸での食事はどうされていたのか、どのような献立を召し上がられていたのか。わずかに残る記録から、当時の献立を探ることにしよう。
※トップ画像は、大正期の宮廷御膳の一例。大膳寮(現在の大膳職)は、口伝により調理方法が伝えられるため、紙のレシピといったものは存在しない=写真/宮内公文書館蔵
戦後、初めての遠征
昭和天皇は、先の大戦が終息したことを伊勢神宮などに報告するため、1945(昭和20)年11月12日に三重県と京都府に向かわれた。その移動には、戦前同様にお召列車が運行されたが、列車内にはかつての軍に属したお付きの人や、近衛将校(天皇の自警団)の姿はなく、その代わりにGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のMP(Military police=憲兵)が身辺警護のため乗車した。
昭和天皇は、この遠征の4日間でお召列車での昼食が2回、伊勢神宮では夕、朝、昼食、神武天皇山陵ご休所での昼食、京都大宮御所では夕、朝食と食事をとられた。いずれも宮内省の大膳寮(だいぜんりょう)が調理を担当し、お召列車と山陵ご休所では和食弁当が提供された。しかし、その献立までは記されていなかった。
お召列車で車中泊
1946(昭和21)年4月下旬、千葉県へのご巡幸が計画されたものの、GHQによるA級戦犯指名が行われるなどしたため、6月に延期となった。この間のご巡幸は実施されていない。あらためて、6月6日から1泊の日程での千葉県ご巡幸となったが、それまで宿泊を伴う天皇のお出かけの際には、皇位の証である三種の神器のうちの剣と勾玉である「剣璽(けんじ)」とともに移動するのが慣らわしだったが、この千葉県への訪問から廃止された。「神聖否定」の一環によるものだった。
東京駅からお召列車で千葉県入りされた昭和天皇は、その日は銚子駅近くにあった貨物駅「新生(あらおい)駅」にお召列車を留め置き、その御料車の車内に備わるソファで仮泊をすることになった。留め置かれた時間は、17時25分から翌朝8時20分までで、夕食、朝食ともに近くの旅館で調理されたものがお召列車へ持ち込まれた。夕食は18時00分から18時30分、朝食は7時30分から8時の間でとられた。献立には、地物の材料を用いた料理が提供されたそうだが、表向きな記録には残されていない。
なお、側近以外のお付きの者は、この旅館に宿泊している。昭和天皇は警備上の理由で、この旅館には泊まれなかったという。