京都盆地の東側に連なる山々を東山(ひがしやま)と呼び、その一峰である月輪山(つきのわやま)の麓に、6つの御陵(みささぎ)がある。そのなかの、月輪陵(つきのわのみささぎ)と後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)は、唐門を一つとし、14の天皇陵と25の皇族陵のほか、5つの天皇灰塚と9つの皇族墓がある。複数の陵墓で形成されるこれらの陵印(天皇陵の参拝時にもらえるスタンプ)は、どのように扱われているのか。その詳細に迫ってみたい。
※トップ画像は、御寺泉涌寺(みてらせんにゅうじ)の寺域内にある月輪陵と後月輪陵。この二つの陵は一つの唐門で囲われた敷地内に所在する=2005(平成17)年11月25日、京都市東山区
寺域内にある陵墓
月輪山(つきのわやま)の麓に広がる御寺泉涌寺の寺域内に、月輪陵と後月輪陵はある。ここには、鎌倉時代の第87代・四條(しじょう)天皇と、江戸時代の第108代・後水尾(ごみずのお)天皇から第120代・仁孝(にんこう)天皇までの14代の天皇が葬られている。
この2つの御陵は、江戸時代までは御寺泉涌寺の境内に含まれていたが、明治新政府による“神仏分離令”により、宮内省(現在の宮内庁)の管轄地に改められ、今に至っている。
39方の陵墓
御寺泉涌寺には、明治天皇のご意向により1884(明治17)年に建てられた歴代の天皇、皇后、皇族方のご位牌が収められた霊明殿(れいめいでん、※非公開)があり、その東側にあるのが月輪陵と後月輪陵だ。この二つの御陵は同一の敷地内にあり、月輪陵に20方、後月輪陵には5方の御陵と、それ以外にも灰塚が5方、皇族墓が9方ある。
二つの御陵にある15方の天皇陵には、「太上天皇(だじょうてんのう)」という”聞きなれない天皇”が含まれている。太上天皇とは本来、譲位後の天皇の尊称だが、こちらは第107代・後陽成(ごようぜい)天皇の父君であった誠仁(さねひと)親王が、亡くなられた後に“太上天皇”の尊号を追贈され、「陽光太上天皇(ようこうだじょうてんのう)」として葬られているものだ。なお、124代の歴代天皇には名を連ねていない。
また、仏式の時代に建立された天皇陵は、上円下方といった陵形ではなく、石造九重塔(せきぞうくじゅうのとう=四條天皇ほか13方)や無縫塔(むほうとう=陽光太上天皇)という仏教様式の造りになっている。灰塚については、第41代・持統(じとう)天皇から火葬が行われるようになり、ここには第103代・後土御門(ごつちみかど)天皇から第107代・後陽成天皇までの5方が、分骨ならぬ“分灰”(これとは別に御陵は存在する)により埋葬されている。