今でこそ世界で確固たる地位を築いている日本車だが、暗黒のオイルショックで牙を抜かれた1970年代、それを克服し高性能化が顕著になりイケイケ状態だった1980年代、バブル崩壊により1989年を頂点に凋落の兆しを見せた1990年代など波乱万丈の変遷をたどった。高性能や豪華さで魅了したクルマ、デザインで賛否分かれたクルマ、時代を先取りして成功したクルマ、逆にそれが仇となったクルマなどなどいろいろ。本連載は昭和40年代に生まれたオジサンによる日本車回顧録。連載第100回目に取り上げるのは1965年に登場したトヨタスポーツ800だ。
トヨタはパブリカで大衆車に初挑戦
1955年に政府は富裕層だけでなく一般庶民も乗用車を手にできるようにという目的から国民車構想を掲げた。その要素は乗車定員4名または2名と100kg以上の荷物が積載可能、最高速100km/h以上、60km/hでの平たん路での走行中の30km/l、月産2000台の場合は1台25万円以下、エンジンの排気量が350~500cc、車重は400kg以下などどれもが非常に厳しかった。ただし、要件を満たした車両の開発に成功すれば、その製造と販売を国が補助するという好条件も提示していた。
当時のトヨタは上級車のクラウン、その下に位置するトヨペットコロナが好評だったが、本当の意味での大衆車は初めての挑戦だった。そのため試作車を作り替えたりと開発は非常に難航。その結果登場したのが初代パブリカで、1961年に販売を開始した。トヨタが初めて手掛けた大衆車となったのだ。
元々は単なる実験車!?
苦難の末商品化したパブリカだったが、結果から言えばトヨタの意にそぐわず、想定した販売をマークできなかった。初めての大衆車はほろ苦い結果となってしまった。このパブリカの結果を受け、リベンジするために登場したのが初代カローラだった。
パブリカの開発責任者は長谷方龍男氏で、初代カローラの開発責任者も務めたトヨタの伝説のエンジニアである。
今回紹介するスポーツ800はパブリカのコンポーネントを使ったコンパクトスポーツカーとして登場するのだが、これも長谷川氏が手掛けた。しかしスポーツ800として登場したクルマはあくまでも実験車で、市販の予定はなかった。どの自動車メーカーも同じだが、市販の予定のないクルマには予算が付かない。長谷川氏を中心に少数のエンジニアが、空力などの研究目的でパブリカのコンポーネントを使ってコンパクトスポーツで研究を重ねていた。パブリカのコンポーネントを使ったスポーツカーを作ろうとしたのではなかった。
ショーの反響で市販化
長谷川氏が主導した実験車両は、パブリカスポーツの車名で1962年の東京モーターで一般に公開したところ大きな反響を得た。トヨタはその大きな反響を得たことで、市販予定がない実験車から市販前提者に格上げを決めたという。そしてモーターショーで公開してから3年後の1965年にデビューを飾った。これは初代カローラデビューの1年前のこと。実験車のパブリカスポーツはスライドキャノピーという斬新な機構(ドアもなし)を備えていたが、市販化されたモデルはルーフが脱着可能なタルガトップ、もちろんドア付きで登場した。
トヨタは市販化に向けて、車名を公募。パブリカをベースとしているため、パブリカのエンジン排気量の697ccから700と命名したと思われるトヨタスポーツ700という車名が多かったという。トヨタはパブリカスポーツのエンジン排気量を公開していなかったから、800という数字は出る可能性は低いなか、排気量アップを予想してかどうわからないが、応募された車名にはスポーツ800という車名が存在し、それに決定したという逸話も残っている。
正式にトヨタスポーツ800と車名が決まり、デビュー後はホンダのS600(1964年登場)のエスロクに対し、ヨタハチの愛称で呼ばれた。この両車の関係については後述する。
蛇足だが、筆者の友人に某家電メーカーのマーケティング担当者がいるのだが、「商品名の公募だけはやるもんじゃない」。その心は、話題性は確かにあるが、決定した名前が応募者多数だった時の後処理、選別の難しさ、煩雑さに加えて商標登録の確認作業などなどとにかく大変らしい。


















