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「トロピカル」の言葉から伝わってきた「先鋭的」な感覚

たった3枚のアルバムを残して解散したはっぴいえんどの後、細野晴臣はファースト・ソロ・アルバムを発表。ソロと平行してキャラメル・ママ、ティン・パン・アレーというバンドを率いる。このバンドには、後に荒井由実と結婚し、彼女のプロデューサーとして大ヒットに貢献する松任谷正隆もキーボーデストとして加わっていた。

そして、1975年、セカンド・ソロ・アルバム『トロピカル・ダンディー』を発表する。それまで、はっぴいえんどのステージは数多く観て来たが、細野晴臣に正式にインタビューしたのは、このアルバム発表時だった。

当時、はっぴいえんどからのマニアックな細野晴臣ファンは少数いたが、YMOで誰もが細野晴臣を知る以前は、そんなコアなファンが中心のマイナーな存在だった。コアでマイナーと言うと何だか、しょぼく聞こえるが、あまりに創造力が高く、時代の先を行っていたので、よほど音楽を深く聴いていないと、細野晴臣を理解できなかったのかも知れない

例えば、現在では誰でも知っているトロピカルという言葉。当時はあまり一般的でない言葉だった。その頃、よく原稿を執筆していた小学館の”FMレコパル”にトロピカルという言葉が入った文章を送った。すると担当編集者から、トロピカルという言葉は一般的ではないので、熱帯地ふうと注釈を入れて欲しいという要望が入った。そんな時代に『トロピカル・ダンディー』というアルバムをリリースしていたのだから、タイトルだけでもいかに先鋭的だったかが伝わる

1975年リリースの『トロピカル・ダンディー』(左端)

天才は天才を知る

その第1回目のインタビューで印象的だったのが漫画の話だった。ぼくの3歳年上の細野晴臣は、ベンチャーズで起こったエレキ・ブーム、そして劇画、漫画世代でもあった。

“小さい頃から漫画好きでね。授業中とか、ずっと内職しているっていうか、漫画を描いていたんだ。音楽にのめり込む前は、漫画だったね。大学に入って、音楽活動に力を入れてても、漫画家になりたいというのは残った。同級生に西岸(さいがん)良平というのがいてね、彼はミュージシャンを目指しながら、漫画を描いていたんだな。ある日、西岸が漫画を見せてくれた。それを見て、あっ、俺はとてもこいつにはかなわない、もっと音楽をやろうと思った。西岸の方は、俺のベースを聴いて、漫画家を目指したって聞いたけどね

西岸良平とは映画『ALWAYS三丁目の夕日』の原作者。1974年に漫画の連載が始まっている。細野晴臣はいち早く西岸良平の才能を見抜いていたのだろう。天才は天才を知るというわけだ。

はっぴいえんど、あるいはそれ以前のアマチュア時代から、細野晴臣には時代の先を見抜く審美眼があった。その審美眼は音楽に対してだけでなく、いわゆるアート一般にまで及んでいた。彼の音楽の土台、アートの土台は並外れて強靭なのだ。

岩田由記夫

岩田由記夫

1950年、東京生まれ。音楽評論家、オーディオライター、プロデューサー。70年代半ばから講談社の雑誌などで活躍。長く、オーディオ・音楽誌を中心に執筆活動を続け、取材した国内外のアーティストは2000人以上。マドンナ、スティング、キース・リチャーズ、リンゴ・スター、ロバート・プラント、大滝詠一、忌野清志郎、桑田佳祐、山下達郎、竹内まりや、細野晴臣……と、音楽史に名を刻む多くのレジェンドたちと会ってきた。FMラジオの構成や選曲も手掛け、パーソナリティーも担当。プロデューサーとして携わったレコードやCDも数多い。著書に『ぼくが出会った素晴らしきミュージシャンたち』など。 電子書籍『ROCK絶対名曲秘話』を刊行中。東京・大岡山のライブハウス「Goodstock Tokyo(グッドストックトーキョー)」で、貴重なアナログ・レコードをLINN(リン)の約350万円のプレーヤーなどハイエンドのオーディオシステムで聴く『レコードの達人』を偶数月に開催中。

※写真や情報は当時の内容ですので、最新の情報とは異なる可能性があります。必ず事前にご確認の上ご利用ください。

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