「この仕事は利口じゃやらない、馬鹿じゃできない」
ラーメン、チャーハン、カニ玉、五目焼きそば……。メニューはざっと数えただけでも50種類以上ある。数が多ければ仕込みが増えるのも当然。出前だってやっている。毎日、朝早くから夜遅くまで黙々と働き続けるのは、好きじゃなければできない仕事だ。取材時も、営業時間を終えたというのに、一度も座ることなく仕込みの野菜を切っていた。独立して26年間、いやそれ以前に働いていた店の頃から、ずっとこんな感じだったんだろう。
「この仕事は利口じゃやらない、バカじゃできない(笑)」
その言葉が、すべてなんだと思う。
「格が違うかもしれないけど、町中華はフレンチと同じで、仕事時間は長いし仕込みは多くて面倒。それなのにこっちは儲からないからね(笑)。昔ながらの個人店は無くなる一方でしょ? 仕込みにそれほど手間が掛からないイタリアンとかは料理人の成り手がいて人気のようだけど、町中華はやろうという人がいない。簡単なようで難しいから、誰かにやらせても潰れる方が圧倒的に多い。だったら自分の代でやめようと決めたんだ」
はっきりとは言わないけれど、決断に葛藤がなかった訳ではないはずだ。店は家族経営。実は出前などの仕事を手伝う息子さんはいる。彼にこっそり聞いてみると、困ったような顔でこう話してくれた。
「毎日、朝早くから店に出掛けて行って、夜遅くに家に帰ってくる父の仕事を近くで見ていたら、自分が継ぎたいとはとても思えなくて……」
真面目にやればやるほど、続けることの大変さがつきまとう。息子には無理に継がせたくないという思いが、渡辺さんの決断の言葉から痛いほど伝わってきた。この店だけじゃない。家族経営の町中華が、次世代へと受け継がれていくことの難しさ。
15歳で上京、料理の道へ
新潟県出身の渡辺さんは、15歳で上京した。蕎麦屋で働いていた時に中華料理店を営む親方と出会い、蕎麦の道から中華へと方向転換。親方や仲間と共同で系列店を始めた。それぞれが店主として『八龍』の名で経営し、昭和の全盛期には赤坂や六本木、大宮などで5店舗を展開していたという。
「5人のうち3人はもう亡くなった。ギャンブルと酒が好きで、仕事後は夜中まで寝ないで遊んでいたからね。やっぱりそれじゃ続かない。病に倒れちゃってね。当時の『八龍』としては大宮の店だけが残ってるかな」
今でこそ営業時間は日にちをまたがないが、50歳頃は夜中3時頃までやっていたそうだ。当時は住んでいた千葉・九十九里浜からバイクで通う日々。朝の通勤時間帯は片道1時間半かかることもあった。曰く「根性がなくなって(笑)」、店の近くにアパートを借り、週のほとんどはそこに寝泊まりした。
「休みの日も店に来てる。今も来ない日はほとんどないよ。だって最高だもん。誰もいない店内で黙々と仕込みをしている時が、一番落ち着くから」