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我が最悪のB級まずい体験

ところで、B級グルメのひそかな楽しみである「まずい店」についても語っておこう。ただし、どうしようかとよくよく迷った末、やっぱり店名は伏せる。

B級店のうまいまずいを見分ける基準として、店頭の造作は重要なポイントだ。一見してうまそうに見える広告過剰の店はたいていまずく、本当にうまい店はシンプルかつ清潔な印象がある。

数年前の冬の晩であった。駿河台上のホテルにカンヅメになっていた私は、突如としてラーメンが食いたくなった。海外旅行者やホテル住いの人が誰でも感ずる「あっ、ラーメン食いてえ」という、やむにやまれぬ衝動に襲われたのであった。

ところが折しも日曜日で、神田界隈の行きつけの店はみな休みである。この際ラーメンが食えるのならどこでもいいという、ぞんざいな気持ちになったのがいけなかった。

さんざ店を探し、小川町付近の路上に佇(たたず)んで周囲を見渡すと、道路を挟んだ向こう岸に、まるでおいでおいでをするようなケバいネオンがあった。看板には「サッポロラーメン某」とある。日ごろから当節流行の「九州とんこつ」をひそかに憎んでいる私は、たちまちわが身の幸甚(こうじん)を感じて信号を渡った。

空腹のあまり店の凶相に気付かなかった私は愚かであった。ケバケバしいネオン、いかにも「うちはうまいぞ」といいたげな造作、ガランとした店内、しかもカウンターの中では、店員たちがタバコを喫いながらムダ話をしていた。ほとんど擬餌鉤(ルアー)の印象があった。

だが、ホテルのA級グルメに食傷していた私は、飢えた魚であった。

みそラーメンを注文し、フト異臭を感じた。まずいラーメン屋はスープの管理が悪いので必ず腐臭がする。だが神田という街の味覚の水準を信じている私は、この目抜き通りにまずい店などあるはずはないと思った。

ひどく時間がかかったように記憶する。たかだかラーメンを作るのであるから、それほど手間どるはずはないのであるが、要するにそう感じるほど、店員たちはムダ話をしながらダラダラと調理をしていたのであった。

はたせるかな、でき上がったラーメンはものすごくまずかった。どのくらいまずいかと言うと、ドンブリを前にしたとたんオエッとするような悪臭がした。スープにはかつての神田川を彷彿(ほうふつ)とさせるような異物が浮いており、てんこ盛りのモヤシは死骸の山のように真黒であった。

しかし、みてくれはまずそうでも実は思いのほかうまい、ということは多々ある。たぶんその手合であろうと信じて、泥河のごときスープをひとくち含んだら、本当にまずかった。私はガキの時分、お茶ノ水の土手から足を滑らせて神田川に落ちた経験があるのだが、たちまちそのときの恐怖をフラッシュ・バックしちまうぐらいまずかった。

で、なるたけスープには触れぬよう、腐ったモヤシも選りわけて麵をたぐった。ところが口に運ぶ間もなく、茹ですぎでクタクタの麵は割り箸の上からボロボロとちぎれ落ちるのであった。

店員たちの手前、文句も言わずに半分も食った私はイキな男である。ただし、これ見よがしにその場で胃薬を飲んでやった。

あんまりまずかったので、その後親しい編集者を一人ずつ連れて行った。みんなあまりのまずさに呆然とし、今度会社のやつらに教えてやると言った。

その店が営業を続けられる理由は、たぶんこれだと思う。

世の中何でもそうだが、うまい話よりまずい話の方が面白い。B級グルメ党が古傷を語ればキリがないのである。

この手の続きはいずれまた。

(初出/1996年6月15日号)

浅田さんオススメ店の現在は

この原稿が書かれてから、26年の月日が流れた。

ここで触れられている「キッチン南海」神田神保町本店は、2019年6月に多くのファンに惜しまれながら閉店してしたまった。だが、翌月、元料理長による最後ののれん分け店が、旧店舗の南東側に、新・神保町店としてオープンしている。浅田さんが愛したカツカレーは、新・神保町店に受け継がれ、値段は750円〈2021年4月現在〉となっている。

天プラの「八ツ手屋」は、創業100年を超え、1956年に再建されたという渋い木造店舗で今も営業しており、当時と変わらぬ旨い天プラを食すことができる。ただ、営業時間は平日の3時間(11:00~14:00)だけなので、訪れる際にはご注意を。

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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おとなの週末Web編集部 今井
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