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生家近くにある龍源寺のお墓

野川のほとりに降り、川沿いを歩いて向かうことにする。

まぁ綺麗なせせらぎですよねぇ。この連載で何度も繰り返してますが、本当にここが東京都内なんて信じられない思いにとらわれる。武蔵野を動き回れば自然、同じ感懐に何度も包まれることになります。

やがて川は「人見(ひとみ)街道」に出た。この道を西にちょっと歩けば、右手に龍源寺(三鷹市大沢)。目的のお墓はここにあります。入口の左手には近藤勇の胸像や、史跡であることを示す石碑などが建ってました。

まずは境内に足を踏み入れて、立派な本堂に手を合わす。墓地はその裏手にあり、目指すお墓も入ってすぐのところにあって、簡単に見つけることができました。辞世の句が彫られた石碑も建ってました。

近藤勇の胸像

近藤勇は武蔵国多摩郡上石原(かみいしわら)村の宮川家に三男として生まれ、当時の剣術の一つ、天然理心流、近藤周助の門人となる。程なくしてその養子にもなり、いくつか名を変えた後、近藤勇を名乗るようになる。

文久3(1863)年2月、上洛する将軍、徳川家茂(いえもち)警護のために編成された浪士組に門人仲間と参加して、京都へ。役目を終えた浪士組は江戸に戻ることになったが、京都残留の嘆願書を提出し、会津藩預かりとなって京都市中の見回りに当たることになった。当時、京都では倒幕派の薩長藩士らが跋扈(ばっこ)し、不穏の空気に包まれていた。それを取り締まるべく新選組が結成され、近藤は局長として采配を振るったのはご存知の通りだ。

結局、倒幕派は勢いを増し、江戸に向けて進軍。敗れた近藤らは改めて下総国(しもうさのくに)流山(現在の千葉県流山市)で陣を敷いたが、官軍に包囲され万事窮すと出頭した。慶応4年4月25日、板橋の地(現在の東京都板橋区板橋と北区滝野川)において刑死。勇の甥は、かつて負った肩の鉄砲傷を目印に刑場から首のない遺体を掘り返し、生家近くの龍源寺まで運んで葬った、という。

波瀾万丈の生涯の果てに、こんな静かな野川の近くに今は安らかに眠っているわけですね。そう思うとまたひとしお、感慨深いものがあります。

そう言えばこの連載第1回、武蔵国分寺跡に行く時も野川の源流近くを通りましたね。多摩川だって第2回と3回で訪れましたし(実はこの後も近くに行くことになる)。武蔵野って川でつながった豊かな地なんだなぁ、と改めて実感する。

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「忠臣蔵」に勝るとも劣らぬ武士道物語...
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西村健
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