「おとなの週末Web」では、食に関するさまざまな話題をお届けしています。「『食』の三択コラム」では、食に関する様々な疑問に視線を向け、読者の知的好奇心に応えます。今回のテーマは「弁当」です。 文:三井能力開発研究所代表取…
画像ギャラリー「おとなの週末Web」では、食に関するさまざまな話題をお届けしています。「『食』の三択コラム」では、食に関する様々な疑問に視線を向け、読者の知的好奇心に応えます。今回のテーマは「弁当」です。
文:三井能力開発研究所代表取締役・圓岡太治
「BENTO」は海外でも人気
秋の行楽シーズンがやってきました。近年はアウトドア人気も高く、お弁当を持って家族でドライブやキャンプに出かける方も多いことでしょう。運動会シーズンでもあり、お父さん、お母さんは、どのようなお弁当にしようかと思案しているのではないでしょうか。
いまや「BENTO」の表記で、フランスを中心に海外でも人気となっている日本のお弁当。「弁当」の呼び名を定着させたのはある武将とする説があります。その武将とは、次のうちの誰でしょうか?
(1)“信玄弁当”が有名な「武田信玄」
(2)“宰相殿の空弁当”の逸話を残す「毛利秀元」
(3)戦国時代随一の革新者「織田信長」
戦の事情?
答えは、(3)の「織田信長」です。
一説によると、信長が自分の城で大勢の人達に食事を与える際に、食べ物を簡単な器に盛り込んで配りました。「1人1人に当てて事前に用意した簡単な食事」などの意味から、それを「弁当」と呼ぶようになったというのです。
「信玄弁当」とは、弁当箱が三段重ねになっており、上の二段に総菜を、下にご飯を入れたものです。武田信玄の兵たちが、巾着袋(いわゆる「信玄袋」)にこの弁当箱を入れて持ち運んでいたともいわれています。
(参考)
『弁当』という言葉を定着させたのは戦国武将・織田信長?(ニッポン放送NEWS ONLINE)
https://news.1242.com/article/156618
「弁当」と「おにぎり」の関係
「宰相殿の空弁当」は、関ヶ原の戦いにおけるエピソードです。
西軍の将、毛利秀元は、関ヶ原の戦いにおいて、東軍・徳川家康の本陣の背後にある南宮山(なんぐうさん)に布陣しました。決戦当日、徳川軍を攻撃するため山を降りようとしましたが、先陣の吉川広家が出陣せず道をふさいだため、戦闘に参加できませんでした。
吉川広家は西軍が敗れると予想しており、東軍と通じていたのです。西軍の急使が秀元に戦闘参加を要請してきましたが、動けずにいた秀元は、苦し紛れに「兵卒に食事を与えている最中」と急使に伝えました。
結局毛利軍は戦闘に参加することなく、また、毛利家に連なる小早川秀秋軍の寝返りなどもあり、関ヶ原の戦いはわずか1日で西軍の敗北で終了しました。秀元の官位は正三位参議(宰相)であったため、世人はこれを『宰相殿の空弁当』と称したと言います。
弁当とは切っても切れない関係にあるのがおにぎりです。外出の用などのために事前に用意しておくのが弁当ですが、かつては「弁当=おにぎり」であったと考えられます。
したがって、弁当の起源はおにぎりの起源とも言え、現在認められているその痕跡は、約2000年前の弥生時代にまで遡(さかのぼ)ります。
詳しくはこちら
「おにぎり、おむすび、にぎりめし 記念日が存在しないのは?」食のクイズ(19)
https://otonano-shumatsu.com/articles/267344