浅田次郎の名エッセイ

「勇気凜凜ルリの色」セレクト(36)「コレステロールについて」

1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。 この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の36回。脂肪肝だけではなく、コレステロールというやっかいなやつに蝕まれてしまった作家は、何よりの大好物との訣別を迫られ……。

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コレステロールについて

「悪玉」が多く、「善玉」が少ない

先週の脂肪肝に続きコレステロールとくれば、何だか本誌の人気コーナー「名医の健康パドック」と間違われそうであるが、どうか併せてお読みいただきたい。要するにこちらは、医者の前では言うに言われぬ患者の愚痴である。

脂肪肝の宣告を受けたと同時に、私は医者からコレステロール値についても指摘された。何でも「悪玉」の数値が高く、「善玉」が少いので注意を要する、というわけだ。

悪人である私は、一瞬正体をあばかれたような気分になったが、どうやらこれは物のたとえで、性格とかいまわしい過去とかとは余り関係がないらしい。

食事療法が必要だということで、コレステロールを多く含む食品のパンフレットを渡された。帰途、ハラが減ったのでミスタードーナツに立ち寄り、フレンチクルーラー、ハニーディップ、アップルパイ等を食いながらそれを読み、愕然とした。

コレステロールを多く含む食品、すなわち私にとって毒となるらしい食い物が、まったく絵に描いたように私の大好物ばかりだったのである。

タマゴ、イクラ、タラコ、イカ、タコ、貝類、エビ、カニ。どう読み返しても私の好物を順番に並べてあるとしか思えなかった。目玉焼き二個は毎朝食のメニューであり、イクラとタラコは食膳に欠かすことのできぬ常食であり、パーティの席では狙い定めてキャビアばかりを食うことにしている。おまけにその前日には良く知らない出版社から電話があったので、とりあえずメシでも食いましょうと言い、「かに道楽」のフルコースを食い散らかしたばかりであった。

そんなわけであるから、高コレステロールの食品を食うなということは、私にとってほとんど個体の生存権にかかわるのである。

とりわけ気になった点はタマゴである。卵黄は100グラム中1300ミリグラムという抜群のコレステロール値を示しており、まさにコレステロールのかたまりであるらしい。黄身を食わずに白身だけ食えば問題がない、とか但し書きがつけてあったが、どう考えたってタマゴのタマゴたる所以(ゆえん)は黄身に存在するのであって、黄身は食わずに白身だけ食えなどということは、たとえて言うならキスだけしてセックスはするなというようなもの、いや、もっと切実だ。たとえば便意を催したとき、屁だけこいてクソをするなというようなものであろう。

見出し タマゴはなによりのごちそうだった

タマゴが好きなのである。裸の女が胸に半熟ウデタマゴを抱いて、さあどっちになさいますかと訊いたなら、迷わずタマゴを手にするぐらい、タマゴが好きなのである。すなわち、これを禁ぜられるということは、生涯セックスをするなと命ぜられるに等しい。

本誌読者の平均的な年齢を察するに、同感の方はさぞ多いことと思う(平均年齢なぞ知らないが、膨大な発行部数と巻末ヌードグラビアの趣味を照合してみると、主力はたぶん私と同世代ではなかろうかと推察する)。

つまり、昭和20年代、30年代の幼少年期において、タマゴはたいそう貴重なタンパク源であり、まことに高価な食品であった。好き嫌いを言う以前に、われらは等しい幼時体験により、タマゴを信仰している。

風邪をひくと滋養になるからといって生タマゴを吞まされた。朝食に生タマゴが供されるのは大変なごちそうであり、商店街にはモミガラの上にうやうやしくタマゴを並べた「タマゴ屋」すらあったのである。

そんなわけであるから、若い読者には理解できないであろうが、われらはみな心の中にタマゴに対する深い信仰心を抱いており、毎日タマゴさえ食っていれば健康でいられると信じ、どんなに貧乏をしてもそれを食うだけで何となく優雅な気分になるのである。

ブロイラー業者の企業努力により、今日タマゴはしこたま食えるようになった。30数年間も値上がりしていない物といえば、まずこれだけであろう。まさに奇蹟である。

幼いころ「死ぬほどウデタマゴを食ってみたい」と望んでいたわれらにとって、今さらタマゴが毒であると言われるのは、それこそ死ぬほど辛い。ところがパンフレットの数値を計算してみると、そのずば抜けたコレステロール値は早い話、「他のものはともかく、タマゴだけは絶対ダメ」と書いてあるに等しいのであった。

夜の台所で愛しいおまえを最後のときを

その夜、私は懊悩の末タマゴと訣別した。物語に倦(う)んじ果てた真夜中、ひそかに台所に立って手鍋に清浄なミネラル・ウォーターを張り、生涯最後の一個になるかもしれぬタマゴを、ことことと茹でた。美しい球体の湯に躍る姿を見ていると、それを奪い合って兄弟ゲンカをした幼い日々が甦(よみがえ)った。

殻に箸の先で穴をあけ、熱にうかされる私の口元に「さ、栄養つけなきゃね」と添えてくれた、母の白い手。タマゴは母の手よりも白く、眩(まば)ゆかった。

タマゴ屋におつかいに行った帰り、古新聞にくるまれた包みごと落としてしまった。とり返しのつかない過ちに泣きながら、ジャンパーの腹に割れたタマゴを抱いて家に帰った。あのとき台所のあがりかまちで、ごめんなさいごめんなさいといつまでも泣いていたのは、たぶんタマゴに対して詫びていたのだろう。

自衛隊の演習のとき、包囲された孤塁に茹でタマゴが届けられた。糧食班の英雄がそれだけを背囊(はいのう)に詰めて、包囲網をすり抜けてきたのだった。膝まで水につかった塹壕(ざんごう)の中で食ったタマゴは、ふしぎなくらい甘かった。

──私は思わず湯の中に躍る彼女に語りかけた。

「……おまえがそんなやつだったとは知らなかったよ」

(そんなやつ、って?)

「おまえと付き合っていると、いつか血管がボロボロになって、心筋梗塞か脳卒中で死んじまうんだそうだ」

(あたしのせいばかりじゃないわ。カニだってイカだって、タラコだって……)

「言いわけはするな。他のやつらなんてたいしたことないんだ。おまえが一番悪いんだ」

茹で上がったタマゴを冷水にひたす。シャワー・ルームから出てきた彼女はことさら美しく、艶やかだ。

「もうこれきりにしよう。おまえが嫌いになったわけじゃない。俺にはまだやらなきゃならないことが沢山ある」

(別れる、っていうのね)

「仕方あるまい。悪いのはおまえの方だ」

(勝手なこと言わないで。あたしに入れあげたのは、あなたの方じゃないの)

乱暴に服を脱がせ、薄い下着をはぎ取る。純白の温かな肌を、私は唇の先で味わった。

(……アン……じらさないで……ねえ、あたしのせいじゃないわよ。他の人は何ともないもの。あなたは見境いがないのよ。一日に何度も、ガツガツするから……ア、アン……)

「そうか? 数の問題なのか」

(そうよ、一日ひとつ、って決めればいいのよ。もう若くはないんだし、それで十分でしょう)

「ガマンできるかな……さあ、いくよ」

(ちゃんとつけて。シオ、シオ)

「あ、そうだった。ちゃんとつけなきゃ」

(……アン。ねえ、わかってよ。悪いのはあたしじゃない、あなただってこと)

「わかった。わかったって」

(だめ、ちゃんと約束して。しばらくは会わない方がいいけど、ほとぼりがさめたら、一日ひとつ。いい?)

「うん、約束する。さ、行くよ」

(きて、早くきて!)

私は台所に立ったまま、ホクホクのタマゴを頰張った。

人の気配にハッと振り返ると、娘が疑わしげに睨みつけていた。

「アッ、こっそりタマゴ食べてる。いーけないんだ。お医者さんに言われてるのに」

現在、総コレステロール値280。善玉(HDL)コレステロール値25。

再会の日は遠い。

(初出/週刊現代1995年11月25日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『きんぴか』『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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