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古来より伝わる便意撃退法

さて、「しゃがみこむ」というとっさの表現にて思い出したのであるが、ここで同病の諸氏に、こうした際の緊急避難術をお教えしておく。古来より文学を志す者の間でひそかに伝えられてきた、「本屋におけるクソ撃退の秘法」である。

口伝の名称を「コビキ」という。字はたぶん「木挽」であろうと思う。

突然のさしこみに進退きわまったそのとき、決してあわてずにその場でしゃがみこみ、下段の書物を探すフリをして、片足のかかとで肛門を圧迫する。要すれば棚を握り、あたかも大木を挽き倒さんとする木挽のごとく、体を前後に揺する。たいがいの便意はこれでとりあえずは収まるので、トイレを探すなり書店から出るなりすれば良い。

秘法とはいえ、これはけっこう知られているらしい。大書店の専門書コーナーに行けば、たいてい何人かの男女が立ち読みに疲れたフリをしてひさかに木を挽いている姿を目撃することができる。

いずれにせよ、大書店はトイレの設備をもっと充実させて欲しい。ことにいつ行ってもハルマゲドン級の便意に襲われ、専門書の量に比してトイレが少く、とっさに退店することも難しい構造の渋谷T堂に対しては熱望してやまない。

170万円のパンツ!?

話は変わる、いや、舞台は変わるが話は変わらない。

私が人間のアイデンティティーを賭けねばならぬ場所がもうひとつある。他ならぬ競馬場である。

そこは本屋と同様、人間が強い精神的プレッシャーを感じる場所で、しかも朝早うからメシもクソもそこそこに飛び出して来るものだから、一般席のトイレはいつも満員である、ことに午前中から午休みまでの盛況ぶりといったら、五人待ちなどは当たり前で、よほどの苦労人もしくは長編作家、禅僧といった種類の人々でなければ耐えること能わざるほどである。

競馬場に禅僧はいないが、幸い、ほとんどが身から出たサビの苦労人であるから、ことほど悲劇は起こらない。

私が本拠地とする東京競馬場の場合、いつでも空いている秘密のトイレがあるのだが、これだけは誌上にて公開するわけには行かない。

さて、競馬場での便意といえば、生涯忘れ得ぬ痛恨事を思い出す。まあ聞いてくれ。

手許にある秘蔵のレース・メモによると、それは昨年の冬、2回中山6日目最終レースにおける出来事であった。知る人ぞ知る「プロ馬券作家」である私は、自らのセオリーに従って馬券購入に際してはオッズを見ない。ところがそのときに限って、窓口の列の真上にオッズ・モニターがあったものだから、チラっと見てしまった。

マーク・シートにはすでに買い目と金額が記入されており、メインレースでしことま取った大金を手にしていた。

オッズを見たとたん、私の胸は高鳴った。前日の夜から本日の勝負馬券はこれと決め、馬体重、パドックでの気配、返し馬の様子等を見ていよいよ確信を深めたその買い目が、何と170倍の高配当を示しているではないか。

私がオッズを見ない理由は、こうした場合のためにある。思いがけぬ高配当を見ると、ビビるからである。

はたしてけっこう繊細な神経の持主である私は、3万円を投ずるはずであったところを1万円に減額した。自信が揺らいだわけではないのだが、500万円の配当金を受け取る姿は余り想像できなかったし、170万ぐらいならバチも当たるめえ、というかなりバクチ打ち的な考えからそうしたのであった。

マーク・シートを書き換えたとたん、かつてないプレッシャーがかかった。170万円といえば、何しろ170万円である。しかも、ものすごく来そうなのである。

私の本は今も売れないけれど、当時はもっと売れなかった。どのくらい売れないかというと、半年かかって書いた小説が6000部ぐらいしか売れないので、170万円の収入はほぼ2冊分の力作に匹敵するのであった。

長編を2冊書くための苦労とか、印税が振り込まれてきたときの天にも昇る心地とかが思い起こされて、かつてないプレッシャーが私を襲ったのである。

それはもはや「木挽」などの小ワザの通用する程度のものではなかった。締切時間は迫っている。列は間に合いそうだが、私の我慢は限界に達していた。シリアスな選択をせねばならなかった。それは、私が人間たりうるかどうかという試練であった。

結果はもうおわかりと思う。人間の道を選んだ私が脱糞中、買いそびれた馬券がモロに的中した。つまり私は、パンツを選ぶか馬券を選ぶかとの選択に迫られたあげくそうしたのであるが、考えてみればそれは、パンツ1枚を170万円で買ったことに他ならないのであった。

ああ、筆の勢いとはいえ思い出したくもないことを書いてしまった。クソ。

(初出/週刊現代1995年7月1日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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おとなの週末Web編集部 今井
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