「いま居る処が最後の砦」という師匠の言葉
【一風堂ラー博店時代】
1994年3月6日、世界初のラーメンのフードアミューズメントパーク新横浜ラーメン博物館がオープン。予想をはるかに上回るお客様が来館され、中坪さんは昼夜を忘れてがむしゃらに働きました。
中坪さん曰く「19歳からラーメンの仕事に携わっていますが、寝る暇もなくこんなに働いたのは、過去を振り返ってもあの時以外ありません。いや~本当に忙しかったし、きつかったです。けどこの時に出会ったスタッフやあの経験は本当に私の財産です」とのこと。
3年経った頃、3度目の独立を申し出たところ今度は「おまえにはまだやらなければならないことがある。ラー博で1番を取ることだ」と認めてもらえませんでした。その後も独立を切り出すと「中坪、新横浜に工場を作るから頼むぞ」と、何かしらの目標を課されました。
そして6度目の独立を申し出たのが2000年。中坪さんが32歳の時でした。
中坪さんは「21世紀は自分で店をやりたい」と伝えたところ、河原さんから「俺が一風堂を始めたのが32歳だったし、そろそろ良い頃やね」と初めて認められたのです。
【独立、「麺の坊 砦」創業】
2001年10月11日、東京都渋谷区の神泉に「麺の坊 砦」は創業しました。屋号の名付け親は、師匠でもある河原成美さん。
「いま居る処が最後の砦 そして すべての始まりなんだ がんばろうぜ」
中坪さん曰く「自分のお店のコンセプトはすべてラー博の対極にありました。ラー博店では物理的にどうしてもできないことを自分の店では表現したかったのです。ラー博店は客席も厨房も狭かったので、ベビーカーや車椅子の方でもゆったりとできるように広くし、トイレもお母さんと子供が入れる広さにしました。そしてラー博は陽の当たらない地下だったので、広々と開けた通り沿いに店を構えました」
このようなコンセプトから「麺の坊 砦」は清潔で落ち着いたお店という口コミが広がり、女性客比率が6割を超えています。オープン当初から女性客がすごしやすい環境にと、髪止め用のゴムやミント付きの爪楊枝等、細部に至るまで気を配られました。
【ラー博への出店】
2011年4月17日、「麺の坊 砦」がラー博にオープンしました。ラー博で店長(一風堂)と店主(麺の坊 砦)を務めたのはラー博史上初のことです。
この年の3月11日、東日本大震災が発生しました。出店自体は2010年の年末に決まっていたのですが、契約をしたのが震災の1日前の3月10日でした。
震災当初は計画停電(計画だけで実施はありませんでした)や自粛ムードにより、ラー博もお客様が激減しました。しかもこの時、二代目げんこつ屋(4月20日)とのダブルオープンというタイミングでもありました。
食は生きていくために必要なものではありましたが、私どものようなアミューズメント施設は、有事には必要とされていないと感じるとともに、こういう時だからこそ、心を豊かにする食というものも大切だと感じました。
そんな難局を迎えつつも、初日から多くのお客様にお越しいただきました。