今でこそ世界で確固たる地位を築いている日本車だが、暗黒のオイルショックで牙を抜かれた1970年代、それを克服し高性能化が顕著になりイケイケ状態だった1980年代、バブル崩壊により1989年を頂点に凋落の兆しを見せた1990年代など波乱万丈の変遷をたどった。高性能や豪華さで魅了したクルマ、デザインで賛否分かれたクルマ、時代を先取りして成功したクルマ、逆にそれが仇となったクルマなどなどいろいろ。本連載は昭和40年代に生まれたオジサンによる日本車回顧録。連載第62回目に取り上げるのは1993年にデビューしたマツダランティスだ。
5チャンネル化を推進
マツダは1989年に販売増強を目指して販売店の5チャンネル化という販売戦略を推進。マツダ店、アンフィニ店(マツダオートから名称変更)、ユーノス店、オートザム店、オートラマ店と、トヨタ、日産、ホンダをも上回るマルチチャンネル化を敢行。姉妹車、コンポーネントを共用したモデルを積極的にラインナップ。しかも、単なる販売チャンネルではなくユーノスブランドからはロードスター、コスモ、アンフィニブランドからはRX-7、オートザム店からは軽自動車のキャロルなど、それぞれがマツダのブランドとなっていたのが特徴だった。さらにマツダの商品企画を目的にM2を設立し、サブブランド化。
さらに海外ではトヨタのレクサス、日産のインフィニティ、ホンダのアキュラに対抗する上級ブランドのアマティを1991年に北米で発表。そのトップモデルには、当時マツダが開発していた扇形にシリンダーを配置した(V6エンジンを組み合わせ)独特のW12気筒エンジンの搭載も噂されていた。まさにマツダはイケイケどんどん状態だった。
激動のマツダ
前述のユーノスロードスター、ユーノスコスモ、アンフィニRX-7など、マツダにしかできないクルマたちは評価も高かったが、その一方で量販車であるファミリア、カペラなどが販売面で苦戦。そしてバブル崩壊でマツダは経営難に陥り、計画のシャッフルを余儀なくされた。5チャンネル化は継続されたものの、渾身のアマティブランドは、1994年の
販売開始を前に1992年にはブランドの廃止が正式に発表された。
マツダはオイルショックなどで経営が傾いたこともあり1979年にフォードと資本提携。そしてバブル崩壊の経営難により倒産のピンチに立たされたマツダは、フォード傘下入りの交渉を開始。最終的には1996年にフォードがマツダへの出資比率を上げ、マツダの経営権を取得した。
ファミリアとカペラの間のポジション
今回紹介するランティスは、こんなマツダが迷走かつ苦境に陥り混沌としていた1993年8月に正式デビューし、日本では同年9月から販売を開始。
デビュー時にはマツダの財政事情は悪化の一途をたどっていて存続すらも危ぶまれていたほどだったが、クルマは開発に5年程度かかる。つまりランティスの開発が始まったのは1980年代後半のバブル時代に開発が進められたモデルゆえ、開発費がふんだんに使われた非常に贅沢なクルマでもあった。
ランティスは4ドアセダンと4ドアクーペという2タイプを設定。今でこそクーペルックのセダンはいろいろ存在するが、当時では斬新なボディスタイルだったのを覚えている。
マツダ車のヒエラルキーでは、ボディサイズはファミリアクラスながら上級仕上げで、ファミリアとカペラの間に位置していた。海外でも販売され、その車名はマツダ323F/323アスティナだった。323とはファミリアの海外名ということからも、ファミリアアスティナの後継モデルと見る向きもあるが、ブランニューモデルあることに間違いはない。