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その唇を奪ったとたん、恐慌が来た

ええと、話がそれたのであるが、要するにそのとき私は、ものすげえ美貌のタイプの女性をベッドにほっぽらかしたままバスルームに駆けこみ、突如獣の咆哮をあげて嘔吐し、雷鳴の如き下痢便を垂れちまったのであった。

どうかこのときの屈辱感を察していただきたい。いったん始まると、体じゅうの筋肉が全て弛緩してしまい、嘔吐と下痢は同時に噴出する。セコいビジネスホテルならば便器にしゃがんだまま洗面台に顎を載せられるのであるが、国際規格のシティホテルの場合は距離が遠い。洗面器もない。したがってバスルームはどっちを優先するにしろ酸鼻をきわめる。

女性は当然心配をし、ドアごしに「だいじょうぶ?」とか声をかける。私はゲロの合間に、「キ、キミは大丈夫かい?」と訊く。「私は何ともないけど……」

そう。そのときも同じ料理を食いながら、なぜか私だけ当たったのである(ちなみに、私は意中の女性には必ず『キミ』という呼称および標準語を使用する。『オメー』とは決して呼ばない)。

恐慌は1時間も続いたであろうか。脂汗にまみれ、1貫目も瘦せてバスルームからよろぼい出ると、当然のことながら女性はいなかった。

二日酔の通勤電車内でお読みの方、または食後の喫茶店でおくつろぎの読者には大変迷惑であろうが、ついでにもう1件。

場所は出張中の京都四条通り界隈、とだけ言っておく。明らかにタイプと予測されるこれまた美貌の女性と祝杯を上げ、めでたく私の宿泊するホテルに急行することになったのであるが、途中むやみに腹がへった。フト見ると路上に屋台のラーメン屋が出ていたので即座にタクシーを止め、2人して暖簾をくぐった。

宵っぱりの東京人から見ると、地方都市はどこへ行っても夜が早い。そのときもたしか午前零時ごろだというのに、屋台ははや店じまいの支度をしていた。オヤジはちょっと迷惑そうな顔をした。しかし私は他人の迷惑をむしろ喜ぶタイプであるので、全く意に介さず、ラーメンを2つ注文した。

オヤジは何となくぞんざいな感じで調理をし、ラーメンではなくチャーシューメンと覚しきものを差し出した。「もう看板やし、サービスしときまっせ」、とか言った。

元来チャーシューという食物は、それぞれの味にたいへん格差があるのだが、とりわけこのチャーシューはすばらしくまずかった。まずいものを避けるのは食中毒にかからぬ秘訣なのだけれど、私は他人の迷惑を喜ぶと同時に、他人の善意は決して拒否しないタイプであるので、すばらしくまずいチャーシューも我慢して全部たいらげた。

「うち、好きやない。食べて」と美貌の女性は言い、これも善意のうちであると解した私は、つごう10枚ばかりのすばらしくまずいチャーシューをすべて食った。

で、ホテルまでブラブラと歩いた。一般に関西の女性に対し、東京の下町方言は禁忌である。逆に「ボクね」「キミはさ」といった山の手標準語は絶大な効果がある。

「ボクはね、たぶん今夜のキミよりも、明日の朝のキミの方が、好きだよ。たぶん、ね」

てなこと言いながらホテルに至り、部屋のドアを閉めると、タイプと予測された美貌の女性は、ほれ見たことかスポットライトの下で抱擁を求めたのであった。このタイプの女性は明日の朝こそどうか知らんが、とりあえず今夜はすばらしい。

闘志に燃え、女性の腰を弓弦のごとく引きしぼってその唇を奪ったとたん、恐慌が来た。

サイテーのタイミングであった。多少の予兆こそあれ、恐慌はほとんど突然やってくる。しかもその夜の場合、原因は料亭の蒸しエビではなく、相応の悪意をもって盛られた屋台のチャーシュー10枚であった。

「ちょ、ちょっと待って」と、私はもがいた。

「いやや、離さへん!」と女性は思いがけぬ強い力で私を抱きすくめた。

再び二日酔の満員電車内でここまでお読み下さった方には申し訳ないが、二日酔をするほどの酒豪であれば、この直後に起きた悲惨な状況が不可抗力的であることを理解なされると思う。

まさか美貌の女性は、接吻の求めに対して嘔吐で応じるような無礼者がこの世にいようとは考えてもいなかったであろう。

どうか言い訳のひとつもできずにバスルームに駆けこみ、便座をまたいだまま洗面台に顎を載せて咆哮するみじめな男の姿を想像していただきたい。しかもそのかたわらでは、美貌の女性が輝くばかりの裸体をセッセと洗い浄めているのであった。

この女性はとてもいい人で、朝まで寝ずの看病をしてくれた。翌朝、何事もなく別れたままである。別れぎわに「今晩、来てくれるかな」と言ったのだけれど、やっぱり来てはくれなかった。

(初出/週刊現代1995年8月14日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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おとなの週末Web編集部 今井
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