文学の教師にして最強のアマ・ゴルファー
当初の目的は、1889年と91年の2回、全英アマ選手権に優勝したジョン・ラドレーの実像取材にあった。
マッセルバラに生まれた彼は、学校の先生をしながらマッチプレーに55連勝の大記録達成、その凄絶にして華麗な試合運びから、「マッセルバラの殺し屋」とも呼ばれた男である。
1878年のウェールズ・アマ選手権に優勝、一躍デビューする。ストロークプレーには生彩乏しかったが、反対にマッチプレーでは出場した全試合とも14番ホールまでに相手を片づけている。
「どのコースであれ、彼は15番以降のレイアウトを知らない」
当時の「エディンバラ・タイムズ」も、このように書いている。通常のプレッシャーに加えて、マッチプレーには目前の相手との苛酷な駆け引きもある。
ヘンリー・ロングハーストは「ゴルフにおけるデスマッチ」と表現したが、そのサバイバルゲームに55連勝とは人間技に非ず、さぞや鬼のような人物と思いきや、なんと詩が専門の文学の先生だった。
あまりの落差に驚きながら、古いファイルを丁寧にめくっていくと、クラブの理事トーマス・クレンドンに宛てた彼の手紙がテープで止めてあった。1918年10月6日、シェフィールド局の消印が読み取れる。逆算すると亡くなる2年前に投函されたものだ。
手紙の文字は美しく、いかにも詩の研究に生涯を捧げた碩学の人柄が偲ばれる。しかし、書かれた内容はド肝を抜くに十分だった。冒頭、自分の病気は一進一退、これから長い冬を迎えるかと思うと気が滅入ると綴ったあと、
「ゴルフと共に歩んだ人生は、いま思い返すだに幸せすぎるものだった。ゴルフから実に多くのことを教えてもらったが、唯一、自分が考案したグリップによって多くの人がプレーを謳歌する姿に触れると、いくらか恩返しが出来たように思う」
ラドレーは、1878年のウェールズ・アマ選手権に勝ったころ、早くも右小ゆびを左人差しゆびの上に重ねる「オーバーラッピング」で試合に臨んだと述べている。
当初は右の2本をはずしてみたが、これでは左が強くなりすぎる。結局右4、左5が適当とわかって、自分のものにするのに1年近くも打ち込みを続けた。
「私のグリップに気づいた者は、判で押したように笑うのだった。なかには、お前さんの真似をしてみたが、ゴロしか打てなかったと文句をつける者もいた。自分としては4対5の比率こそグリップの究極と信じて、生涯、この握りでゴルフを続けた」