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ゴルフ史が塗り替えられる大発見

1890年の夏、スコットランドのリボンで行われた「あざみ杯」に出場した彼は、ジャージー島出身のハリー・バードンと名乗る若者と対戦、これまた14番ホールに辿り着く前に一蹴する。

「もしそのとき、彼が私と同じグリップでゴルフをしていたならば、絶対に気づかないはずがない。私の記憶では、彼はナチュラル(野球)グリップでボールを打っていたように思う」

バードンは1870年生まれ、ラドレーと対戦したときは20歳のルーキーであり、その3年後に全英オープンに初出場して予選落ち、翌94年に5位、そして96年、ミュアフィールドに於てJ・H・テイラーと手に汗握るプレーオフを演じて初優勝を遂げる。それからというもの、当時のプロが平均83で回るコースを、悠々72前後でホールアウトする実力を見せつけ、ジェームズ・ブレードを加えた「ゴルフ三巨人」の頂点に立つのである。

「新聞、雑誌などにバードンの新グリップが紹介されたとき、私の知人たちはアイデアの盗用だと騒ぎ、各社にコトの顚末を書いて郵送する者もいた。しかし、一アマチュアが考案したものと、天下のバードンが編み出したものでは値打ちが違うと踏んだのか、どこも取り合ってはくれなかった。私にしてみると、発明者は誰であれ、ゴルフ界に寄与できたことは身に余る名誉だと思い、ことさら騒ぎ立てる真似だけはしなかった」

いかにも真のゴルファーらしく、彼はつつましやかな人間だった。一方、バードンもまた立派な人物、自分のグリップについては自著『How to play Golf』(1912年刊)の中で、次のように触れているだけ。

「利き腕の力を弱めることによって、実は左腕の能力が生かされ、ようやく左右の腕が思いきり振れるスウィングが実現したのである」

自分が考案したとは、どこにも書いていない。この握りに「バードン・グリップ」の名称を献上したのはアメリカのマスコミだ。

1900年、大西洋を渡って全米オープンに出場した彼は、アメリカ人以外で最初の優勝者となった。当時はゴルフの知識も乏しく、バードンが実践するグリップは一種のカルチャーショックだった。そこから彼の名がつけられたようである。

「いずれにせよ、どうでもいいこと。ゴルフ界発展のお役に立てて、とても満足している。プレーが叶わなくなったいま、思い返すのはゴルフのことばかり。泡沫の人生の中で偉大なるゲームとめぐり逢えた私は、真に果報者」

ジョン・ラドレーの手紙は、こう結ばれてあった。また一つ、ゴルフ史が塗り替えられる話に遭遇した感がある。

(本文は、2000年5月15日刊『ナイス・ボギー』講談社文庫からの抜粋です)

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夏坂健

1936年、横浜市生まれ。2000年1月19日逝去。共同通信記者、月刊ペン編集長を経て、作家活動に入る。食、ゴルフのエッセイ、ノンフィクション、翻訳に多くの名著を残した。毎年フランスで開催される「ゴルフ・サミット」に唯一アジアから招聘された。また、トップ・アマチュア・ゴルファーとしても活躍した。著書に、『ゴルファーを笑え!』『地球ゴルフ倶楽部』『ゴルフを以って人を観ん』『ゴルフの神様』『ゴルフの処方箋』『美食・大食家びっくり事典』など多数。

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おとなの週末Web編集部 今井
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