ゴルフは親子2人が生き残る手段
70連勝どころか、ローランドが負けたという記録はどこにも存在しない。ゴルフ界不世出の随筆家といわれるバーナード・ダーウィンは、彼に会って一編の物語を書こうと考えた。
『種の起源』で有名な進化論学者、チャールズ・ダーウィンの孫でもある彼は、ロンドンで開業していた弁護士事務所をたたんでゴルフの文筆家に転向した変わりダネ。自らも全英アマに出場した名手である。
1946年、ダーウィンは「埋没した偉大」というタイトルでエッセイを発表する。
「ローランドは、リンプスフィールドの町に住んでいたことがある。結婚して間もないころ、途方もない長さで知られるウォーリントンの3番ホール、パー5の第2打目にブラッシーを持ち出すと、アゲンストの中、豪打を放ってピン1ヤードのミラクル、まさかの3でホールアウトしてみせた。この出来事はいまも伝説として残る」
「彼は稀なるシャレ者だった。ある日のエキジビションマッチでは、友人の結婚披露宴からタキシード姿で駆けつけると、上衣だけ脱いで、ノリのきいたシャツを手でもみくしゃにして微笑するなり、借り物のクラブでゲームを始めた。しかも信じられないことに、彼は従来のコースレコードを破ってみせたのである」
ダーウィンは、各地に残る断片的なエピソードを丹念に集めて紹介する。大流行した悪性感冒の犠牲となった愛妻、彼の自殺未遂、残された娘もまた感冒の後遺症に苦しみ、知的障害を背負うことになる。
その子がいじめられるたび、彼は転々と住居を変える。イングランドの南端、ライにいたかと思うと、スコットランドのインバーネスに住んでいたこともある。
「彼のゴルフは、親子2人が生き延びるための手段であり、あまねく名医を訪れるに必要な膨大な費用の稼ぎ場所でもあった。名誉は満腹にならない、と語った彼は正直な男である」
ゴルフの技は冴える一方だった。金持ち同士が「代打ち」を雇って大金を賭ける「エディンバラ・マッチ」では4日間とも首位にとどまって、2位に17打の大差をつけてみせた。
第二次大戦が終わって間もなく、ダーウィンは案内する人があってローランドの住む狭い部屋を訪れる。それほど老ける年齢でもないのに、彼はリューマチの苦痛に呻吟していた。
「ゴルフは?」
「クラブが持てない。どこかで痛み止めを手に入れてくれないか」
「約束しよう」
それから、思い切って尋ねてみた。
「娘さんは元気かね?」
質問には答えず、いくつかの有名なコースの名を挙げて、空襲の被害がなかったかどうか、しきりに心配する様子だった。それ以上、もうダーウィンには聞くこともなく、ポケットにあった有り金のすべてをテーブルの上にそっと置いて帰りかけたとき、彼が嗄れ声で呟いた。
「娘は、天国の母親のところに行ってしまった。1941年の夏のことだ」
暗い部屋の片隅には、パターが1本立て掛けてあった。痛む手をだまして身構えることもあるのだろうか。
それでもパターがあっただけで理由もなく安堵したダーウィンは、一礼して部屋をあとにする。
(本文は、2000年5月15日刊『ナイス・ボギー』講談社文庫からの抜粋です)
夏坂健
1936年、横浜市生まれ。2000年1月19日逝去。共同通信記者、月刊ペン編集長を経て、作家活動に入る。食、ゴルフのエッセイ、ノンフィクション、翻訳に多くの名著を残した。毎年フランスで開催される「ゴルフ・サミット」に唯一アジアから招聘された。また、トップ・アマチュア・ゴルファーとしても活躍した。著書に、『ゴルファーを笑え!』『地球ゴルフ倶楽部』『ゴルフを以って人を観ん』『ゴルフの神様』『ゴルフの処方箋』『美食・大食家びっくり事典』など多数。