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ペリー以前からやってきていた“黒船”

その後ロシアの千島列島進出が活発化すると、松前藩の力だけではどうにもならないと江戸幕府は判断し、天明5(1785)年に国後、択捉などの北方領土と千島列島に役人を派遣し、実地調査を行います。

そして寛政4(1792)年ロシア皇帝エカテリーナ2世の国書を携えた陸軍中尉のラクスマンは、伊勢の船頭で漂流民としてロシアに保護されていた大黒屋光太夫を伴い根室にやってきます。江戸に出向いて通商交渉するためでした。

時の老中は吉宗の孫にあたる松平定信ですが、鎖国は国法で江戸への来航は許可できない。交易の交渉は長崎で行うとし、結局ラクスマンは帰国を余儀なくされます。

ラクスマンなどロシアの南下の動きに幕府は神経をとがらせ、千島、樺太を含む蝦夷地を幕府直轄領とし、択捉島以南の島々に番所を設け、南部藩と津軽藩に守備を命じます。

文化元(1804)年ロシア外交官レザノフが幕府の回答に基づいて、長崎に来航します。通商を求めるレザノフを幕府はのらりくらりかわし、半年近くも待たせて結局拒絶します。これに怒ったレザノフは武力での交渉打開を考え、部下に文化3(1806)年樺太の松前藩番所を、文化4(1807)年択捉島の松前藩番所を攻撃させています。これを文化露寇といいますが、幕府は箱館から松前に奉行所を移し対応にあたっています。この事件を契機に異国船を穏便に出国させる「薪水給与令」が「ロシア船打払令」に変更されています。ペリーがやってくる以前からたびたび「黒船」はやってきていたわけです。

松前城 kiyo@Adobe Stock

「ゴローニン事件」と日露交渉で活躍した高田屋嘉兵衛

そして文化8(1811)年「ゴローニン事件」が起きます。艦長ゴローニンが乗るロシア艦隊のディアナ号が千島列島の沖合を測量中、薪や水の補給を求めて国後島に立ち寄りました。国後島で守備をしていた松前藩兵は「ロシア船打払令」もあって艦長のゴローニンらを拘束し、松前へ送ります。以来ゴローニンは2年3カ月幽閉されることになります。

いっぽうゴローニンの部下でディアナ号の副艦長リコルドは翌年日本人漂流民を交換要員として国後島近海にやってきます。しかし、幕府側はゴローニンを処刑してしまったと拒否。怒ったリコルドは一隻の日本船を拿捕します。国後島と択捉島の間に航路を開き、アイヌの人々に漁法を教えていた高田屋嘉兵衛の乗る観世丸でした。

嘉兵衛はカムチャツカに連行されますが、彼自身の提案と進言もあって翌年ゴローニンとの交換で解放されます。嘉兵衛は、独学でロシア語を学び、そのロシア語を駆使して、日露間にとって一番いい解決法は何かを考えたのです。船頭としても一流でしたが外交官としても使える男だったのです。

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「世界で最も聡明な民族」ロシア人艦長ゴローニンが日本人を評価...
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松平定知
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