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将軍が2人いるような状態

元和9(1623)年家光が第3代将軍になった翌年、忠長は駿河、遠江の2国55万石を与えられ、家康ゆかりの駿府城に入ります。55万石といえば、御三家筆頭の尾張家の62万石に次ぎ、紀州家と同石高。駿府城は家康が隠居城として使った由緒ある城でもあります。しかし、本人は不満のようで、将軍の弟だからこれくらいは当たり前と考えていたフシがあります。小さい時から父母に甘やかされた典型的なお坊ちゃんで、自分の思いが通らないと不満を口にしてしまう癖があったようです。

西国大名らは、江戸に向かう途中、必ず忠長の機嫌をうかがうようになり、将軍が2人いるような状態となりました。当然、家光は面白くありません。

そういった均衡関係にあった時に、母である江が亡くなります。母を亡くした忠長の精神状態は不安定になりました。後ろ盾をなくした喪失感があったのでしょう。

高崎城の乾櫓 mtaira@Adobe Stock

1200匹の猿を殺す“奇行”

その後、忠長に関してはいくつもの奇行が伝えられています。そのひとつが浅間神社の猿狩りです。浅間神社は聖域とされ、そこに棲む野猿は神獣とされていました。にもかかわらず、田畑を荒らすという理由で1200匹あまりの猿を殺したのです。さらにその帰途、罪もない駕籠かきを手討ちにするなど、その行動は異常でした。

また忠長は、父の秀忠に「100万石を賜るか、大坂城をいただきたい」と述べたという記録も残っており、結局甲府に蟄居を命ぜられてしまいました。

秀忠が亡くなると、父への気兼ねのなくなった家光は、時の高崎藩主・安藤重長に忠長を預けます。表向きは病気療養でしたが、すでに家光の腹は決まっていたようです。

高崎城址 mtaira@Adobe Stock

領地没収のうえ、切腹

家光は忠長の領地を没収し、家老たちを流罪としました。さらに側用人・阿部重次に、忠長の切腹を命じます。子どもの頃、忠長ばかりかわいがられたことへの腹いせでしょうか、重次には、もしも忠長を切腹させられなかったら、「差し違えろ」とまで言っています。

重次の命を受け、高崎藩主・安藤重長は、事の重大さに将軍の御墨付きが欲しいと願い出ます。これは、家光が冷静になるよう時間稼ぎだったのかもしれません。しかし、家光は直ちに一筆したため、これを受け重長は忠長の屋敷を竹矢来(たけやらい)で囲みました。忠長はこれにより、自分が罪人として扱われ、今後許されることがないと悟るのです。彼の最期は、自ら短刀で首を刺し貫くという壮絶なものでした。

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