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非業の死を悼み、生まれた「松平長七郎」

血を分けた兄弟が、権力闘争の果てに迎えた悲劇。天国の秀忠と江夫妻は忠長の自刃をどう見たのでしょうか?

ちなみに忠長には子がいませんでしたが、松平長七郎という架空の人物が、忠長の子として語られるようになります。非業の死をとげた忠長を悼む庶民の間から、そのような話が生まれたのでしょう。

高崎城の乾櫓と東門 mtaira@Adobe Stock

【高崎城】
この地を治めた豪族、和田氏の居城、和田城が前身で築城は1428年、和田義信によるとされる。高崎城となるのは、徳川家康の関東入部に伴い、天下取りを支えることになる井伊直政が、近くの箕輪城から慶長2(1597)年に移った時のこと。しかし、井伊直政は3年で近江、佐和山へ移り、その後は諏訪氏、酒井氏、安藤氏など藩主がめまぐるしく変わった。明治6(1873)年の廃城令を受け取り壊されたが、写真の乾櫓と東門が現存しており、乾櫓は武器や食料の収蔵庫とされる。
住所:群馬県高崎市高松町城址公園内
電話:027-321-1257(高崎市観光課)

【徳川忠長】
とくがわ・ただなが。1606~1633年。徳川幕府第2代将軍秀忠の三男で、兄は第3代将軍の家光、幼名は国千代。母であるお江(ごう)が家光よりも利発だった国千代を可愛がり、将軍後継と目されたこともあった。しかし、家光の乳母お福(後の春日局)によってその芽が断たれ、駿河と遠江合わせて55万石を与えられる。しかし、後ろ盾だったお江の死後は乱行が目立ち、父秀忠により甲斐の国に蟄居を命ぜられ、秀忠の死後家光により高崎藩に預けられ、切腹を命ぜられる。享年28。忠長の墓は大信寺(住所:高崎市通町75、電話:027ー322ー6069)にある。

【土井利勝】
どい・としかつ。1573~1644年。徳川家康の母方のいとこにあたり、家康、秀忠、家光と3代にわたって仕えた。将軍が交代すると側近も変わるのが通例のなか、信頼が特に厚く、秀忠時代は老中、家光時代は大老を務めた。家康のご落胤の噂もある。

松平定知さん

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」

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