第ローマの皇帝は、フランスの太陽王は、ベートーベンは、トルストイは、ピカソは、チャーチルは、いったい何をどう食べていたのか? 夏坂健さんによる面白さ満点の歴史グルメ・エッセイが40年ぶりにWEB連載として復活しました。博覧強記の水先案内人が、先人たちの食への情熱ぶりを綴った面白エピソード集。第42話をお送りします。
恋も事業も、家族も宗教も、芸術も愛国心も、ただの言葉の影にすぎない。腹がへっているときは!――O・ヘンリー――
パリで開かれた世にも珍なる「菜食主義博覧会」
ソクラテスからプラトンへ、プラトンからルソー、トルストイへと受け継がれた菜食主義が西洋型とすれば、釈迦の殺生禁断の教えを忠実に守って野山のものだけを食べ続けた孔子、朱子、それに聖徳太子の流れは東洋型菜食主義といえるだろう。
ポパイの話をすすめていくと、菜食主義のルーツをたどることになってしまうのだが、19世紀の中ごろ、ドイツの学者K・V・フォイトが、
「人間の活性化には肉の高タンパク質が最高のものである」
というキャンペーンを張って、これがあっという間に欧米に広がっていった。肉食必要論である。
これに抵抗したのがフランスのガレッツェだった。彼は肉食必要論に逆上し、私財を投げうって、1878年、パリで「菜食主義博覧会」という、世にも珍なる博覧会を開催したのである。
会場に入ると、巨大な絵が壁一面に延々とかかげられている。無邪気に自然の中で暮らす動物や鳥たち、突如襲いかかる人間ども、惨殺のシーン、食卓でその肉にかぶりついている人々が醜悪な一大パノラマ的絵巻物で描かれている。中でも大きなセンセーションをまき起こした絵は、着飾った美しい女たちが口々に鳥のももや骨付き肉をくわえている光景だった。魅力的な口もとから血が一筋、二筋流れ落ちて白いドレスに鮮やかなシミを作っている図柄が毒々しく描かれていたのだ。
この博覧会は大成功といわれた。当時フランスでは5軒に1軒が菜食メニューに転向したという記事も出たほどで、ガレッツェは一躍「教祖」の扱いを受けるようになった。彼は気をよくして1886年に「フランス菜食協会」を設立、初代会長におさまっている。
イギリスでの菜食運動はフランスより数十年も早く始まっていた。1847年にマンチェスターで「菜食者協会」が誕生している。そして1908年、ガレッツェの呼びかけでついにパリにおいて「世界菜食主義者大会」が開かれ、世界的な運動になったのである。各国が競って菜食励行の印刷物を発行し、講演会を開催した。