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殉死の禁止、末期養子の緩和、大名証人制度の廃止

当時は将軍が死ぬと、老中以下が殉死の道を選びましたが、正之はそれを人材の喪失と考えたのでしょう、会津藩で行った殉死禁止令を、幕府においても実行しました。

末期養子とは、例えば殿様が脳卒中か何かで急死したとします。跡継ぎがなく、養子の届け出もなかった場合は、その藩はお取り潰しになったのです。これでは浪人が大量に生まれてしまいます。それで正之は、50歳未満の大名に不慮の死があった場合、急きょ養子をとることを認めて救済することにしたのです。

また大名証人制度とは、いわば大名の人質制度です。大名の妻子と家臣の子弟は、江戸に住むことが義務づけられて証人(人質)とされていました。それを正之は、大名の家臣の子弟に関して廃止しました。もはや下克上の世ではないため、大名の妻子さえ人質にとっておけば問題なしとする、文治政治的な考えによるものでした。

会津若松城から見た風景 sLavantraveljp@Adobe Stock

江戸城に天守がない理由

そのほか正之はインフラ整備にも力を入れ、玉川上水を江戸八百八町に引き、上水と下水を分けました。また、隅田川に橋を架けたのも正之です。明暦の大火で江戸中が火の海になり、多くの人々が隅田川を渡れずに焼死しました。当時は防衛上の理由から、隅田川に架かる橋は千住大橋しかなかったのですが、正之の提言によって、永代橋や両国橋が架けられました。

ついでながら、明暦の大火(めいれきのたいか)では、江戸城の天守も焼け落ちました。天守の再建は当然という空気でしたが、正之はそれを押しとどめ、江戸復興のために資材を使うべきとしたのです。現在も江戸城には天守がありません。

正之は会津藩主でありながら、23年もの間会津に帰らずに幕政を支えました。彼は、民衆が安心して暮らせる平和な時代への舵取りを行った、偉大で「清廉」な政治家でした。

会津若松城 ii_tomoaki@Adobe Stock

【会津若松城】(別名・鶴ヶ城)
室町時代にこの地を治めた蘆名氏の黒川城を、豊臣秀吉の家臣、蒲生氏郷が整備し、黒川から若松に改める。蒲生をこの地に置いたのは、北の最上氏や伊達氏の牽制という意味があった。その後、加藤明成が治め、空堀を水堀に代え、五重の天守を築くなど、現在のかたちに整えた。幕末の戊辰戦争で白虎隊の存在や、1日2500発の砲弾を浴びながらも1カ月の籠城に耐え、降伏はしたが落城しなかったことでも有名。明治7(1874)年に取り壊された後、昭和40(1965)年に再建。平成23(2011)年、幕末当時の赤瓦に改修された。
天守閣博物館入場料:大人410円、小人150円
開館時間:8時30分~17時
休館日:無休
住所:福島県会津若松市追手町1-1
電話:0242-27-4005(一般財団法人 会津若松観光ビューロー)

【保科正之】
ほしな・まさゆき。1611~1673年。徳川幕府第3代将軍・徳川家光の異母弟として生まれる。秀忠が正室、お江与の方の嫉妬を怖れ、信州高遠藩に養子に出されて高遠藩3万石の藩主となる。家光が正之の存在を知り引き立てるも、あくまで家臣として仕える謙虚な姿により、家光の信頼を得る。最上山形20万石から会津若松23万石に移り、初代藩主となる。幕閣にあっては殉死の禁止や末期養子の緩和のほか玉川上水の整備や隅田川の橋の整備などいわゆる文治政治への転換をはかる重要な政策をすすめ、徳川幕府の基礎を築いた。

松平定知さん

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」

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