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「六角家」の復活プロジェクト、弟子+実弟+姪が協力

「あの銘店をもう一度」の企画が立ち上がった2021年、新横浜ラーメン博物館の館長・岩岡洋志は神藤さんに「この企画で、もういちど六角家をラー博に復活させましょう!」と相談しました。

しかしながら神藤さんは体調を崩していたこともあり、「色々と迷惑をかけたし、俺はできないが弟子がやる形でならば」という話になり、協議を重ねたうえで白羽の矢が立ったのが浜松にある「蔵前家」の袴田祐司さんでした。

「蔵前家」店主の袴田祐司さん

神藤さん曰く「努力とセンスが際立った弟子で、わずか5年弱で独立を認めた優秀な弟子。今は浜松に移り住み、自分のお店を20年以上繁盛させている」とのこと。

そして、今回のプロジェクトは、別経営である「六角家戸塚店」の神藤誠さん(神藤隆さんの弟)、露木あゆみさん(神藤さんの姪)にも協力・賛同いただき、スタートを切ることになりました。

左から袴田祐司さん、露木あゆみさん、岩岡館長(2023年撮影/蔵前家にて)

「六角家」の遺志を継ぐ袴田祐司さん、2001年に「蔵前家」として独立

袴田さんは1972(昭和47)年、浜松生まれ。実家は1974年から続く浜松餃子の老舗「紀楽」を営んでいます。「紀楽」ではラーメンも出していましたが、袴田さんはもっと美味しいラーメンを出したいと思っていました。

袴田さんは「新横浜ラーメン博物館に行けば美味しいラーメンがあるはず」とラー博を訪れ、そこで食べた「六角家」の味に衝撃を受けたのです。

その後、毎週のように浜松から六角橋の本店やラー博に通っていましたが、ある日、六角橋の本店を訪れた時、店先に「急募」と書いた求人募集が出ていて、袴田さんは迷わずすぐに連絡をしました。

袴田さんが「六角家」に弟子入りしたのは1996年の3月20日。最初は本店から入り、その後、ラー博店でも働くようになりました。

厳しかった弟子の時代

袴田さん曰く「当時の『六角家』は本当に厳しい世界で、2~3日で辞める人がほとんどで、10人弟子がいたとしても残るのは1人くらいでした。自分は早く独立したかったため、誰よりも早く店に入り、技術を身に付けました。当時は朝早く本店の仕込みを終わらせてからラー博店の営業に入るなど、朝から晩まで働いていました。あの時の苦労があって今があると思います」とのこと。

袴田さんは独立が認められ、2001年の5月まで六角家で働いたあと、2001年7月26日に東京都台東区蔵前に「蔵前家」をオープン。袴田さん曰く「浜松に戻ることも考えましたが、実家も人手が足りていたし、当時東京の東側に家系ラーメンが少なかったこともあり、蔵前で店をやることにしました」

その後、2009年4月4日に浜松に移転し、現在に至ります。

浜松に店を構える「蔵前家」
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神藤隆さんが目指していた理想のスープ、1994年当時の味を進...
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おとなの週末Web編集部
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