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名古屋駅で“駅弁”を購入

1907(明治40)年10月10日、当時皇太子だった大正天皇は、日本の保護国であった大韓帝国(1897~1910年)を訪問されるため、新橋駅(旧汐留駅)から御召列車で宇品駅(広島県)へと向かっていた。その途次、11日に静岡駅から舞子駅(兵庫県)へと向かわる途中の名古屋駅(愛知県)では、列車内で召し上がる“駅弁”を購入した記録が残されている。

「上弁当(60銭)60個」「中弁当(40銭)7個」「下弁当(20銭)5個」の計72個を事前に注文しており、駅弁業者には名古屋駅に午前11時12分に到着する御召列車(御料車と貨車を含む6両編成)まで届けさせた。依頼を受けた駅弁業者は、さぞ驚いたことだろう。

当時の駅弁業者を調べると服部商店(1922年廃業)だとわかった。その後は、現在も名古屋駅を中心に駅弁販売を手がける松浦商店の前身となる料亭「八千久(やちく)」へと引き継がれたが、残念ながら当時の献立などは残されていないという。

駅弁を注文した記録は、当時の文書のまま残されている。「行啓録11韓国・九州・四国ノ部」/明治四十年〔宮内公文書館蔵〕

食堂車にも勝る!

大正時代(1912~1926年)になると、鉄道網の発達とともに列車の旅も長距離化が進んだ。1899(明治32)年には、私鉄の山陽鉄道(現在のJR山陽本線)で日本初の「食堂車」が登場した。皇室の御召列車に食堂車が登場したのは、それから遅れること15年、1914(大正3)年のことであった。

もちろん、食堂車が登場する以前も車中でご昼食を召し上がることもあった。天皇が乗車する「御料車」には、簡単な調理が可能な台所=供進所(ぐしんじょ)が備わっており、サンドイッチなどの軽食が提供されていた。食堂車が誕生すると、本格的な「洋食料理」が列車の中で味わえるようになった。しかし、食堂車を利用していたのは大正天皇だけで、貞明皇后のご利用は一度もなかった。いつしか、食堂車の存在は忘れ去られ、駅弁や軽食といったシンプルな献立へと舞い戻っていった。

大正3年に製造された御召列車用の「御食堂車」御料車第9号。活躍したのは大正年間のわずか15回だけに終わった。この車両は現在、大宮の鉄道博物館に展示されている=宮内公文書館蔵
皇室用御食堂車の厨房には、左から氷冷式冷蔵庫、流し、石炭ストーブ(コンロ)が設備されていた。調理は、宮内省(当時)の料理人が担当した=宮内公文書館蔵
御正装の大正天皇と貞明皇后=宮内公文書館蔵

次回「皇室と駅弁のつながり(2)」では、昭和、平成、令和と時代を追って、さらなる皇室と駅弁のつながりをご紹介します。

文・写真/工藤直通

くどう・なおみち 日本地方新聞協会皇室担当写真記者。1970年、東京都生まれ。10歳から始めた鉄道写真をきっかけに、中学生の頃より特別列車(お召列車)の撮影を通じて皇室に関心をもつようになる。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物を通じた皇室取材を重ねる。著書に「天皇陛下と皇族方と乗り物と」(講談社ビーシー/講談社)、「天皇陛下と鉄道」(交通新聞社)など。

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