皇室のヒミツ、皇族の素顔

“秘密の通路”が存在!? 知られざるJR東京駅

当時の日本を代表する建築家であった辰野金吾博士が中心となり設計した東京駅丸の内駅舎。レンガ造りが印象的なデザインは、「辰野式ルネッサンス」と称された=2018(平成30)年7月11日、東京駅

2003(平成15)年に国の重要文化財に指定されたJR東京駅丸の内駅舎。駅が開業したのは1914(大正3)年12月20日のことで、当初はその年の11月に予定していた「大正御大礼(大正天皇の即位礼)」に合わせて竣工させて、京都御所へ向かう御召列車が発着する「天皇の駅」として使用するはずだった。レンガ造りの駅舎正面には、帝室用玄関(当時)を備えるなど、皇室利用駅としてのイメージも強く、当時は宮城(きゅうじょう)と呼ばれた皇居にほど近い場所ということもあり、「地下通路で結ばれているのではないか……」といった“噂”が絶えなかったという。現在も皇室の方々が利用している東京駅だが、今でも同じような“都市伝説”は存在するのだろうか。

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2003(平成15)年に国の重要文化財に指定されたJR東京駅丸の内駅舎。駅が開業したのは1914(大正3)年12月20日のことで、当初はその年の11月に予定していた「大正御大礼(大正天皇の即位礼)」に合わせて竣工させて、京都御所へ向かう御召列車が発着する「天皇の駅」として使用するはずだった。レンガ造りの駅舎正面には、帝室用玄関(当時)を備えるなど、皇室利用駅としてのイメージも強く、当時は宮城(きゅうじょう)と呼ばれた皇居にほど近い場所ということもあり、「地下通路で結ばれているのではないか……」といった“噂”が絶えなかったという。現在も皇室の方々が利用されている東京駅だが、今でも同じような“都市伝説”は存在するのだろうか。

大正御大礼で華々しく開業するはずが・・・・

冒頭でも記したように、1914(大正3)年11月に行われるはずだった大正の御大礼は、その年の4月に明治天皇の后(きさき)だった昭憲皇太后(しょうけんこうたごう)が亡くなられ、1年間の喪に服すため翌年の1915(大正4年)年11月20日に延期された。このため、東京駅は目的の一つであった「天皇の駅」として開業することは見送られ、ひっそりと1914(大正3)年12月20日に「東京停車場」として一般向けに旅客営業を開始した。

赤レンガ駅舎の正面中央には、天皇用の玄関として「帝室用御出入口」が特別に設けられ、専用の待合室「便殿(びんでん)」や、玄関からプラットホーム下までを直結した「帝室用廊下(通路)」が用意された。当時は、電車用と汽車用のホームが4つあるだけのコンパクトな駅だった。

開業当時の東京停車場の写真。停車場とは「駅」を表す鉄道用語で、一般には東京駅と記された=写真/宮内公文書館蔵
開業当時の東京駅を表した図面。今とは異なり、向かって左側(北口)が乗車専用の改札口、右側(南口)が降車専用の集札口に分かれていた。エキナカなど影も形もない時代ゆえ、今のようにホーム下を南北に行き来することはできなかった。中央上部に帝室玄関があり、そこからはホームへとつながる帝室用通路が見てとれる=写真/宮内公文書館
帝室用玄関を入った広間は、2階部分まで吹き抜けとなっていた=写真/宮内公文書館蔵
帝室用玄関を入ると、控えの間「便殿付属室(びんでんふぞくしつ)」があった=写真/宮内公文書館蔵

空襲で被災

1945(昭和20)年5月24日夜の米軍による空襲のため、東京駅も焼けてしまう。修復された後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による占領下では、連合国軍の管理下におかれ、米兵たちが専用玄関を使用した。駅舎の修復は、まずは旅客利用部分を優先し、皇室用の施設は、1952(昭和27)年のサンフランシスコ講和条約が結ばれた翌年から工事費4千万円(当時)と2年の歳月をかけて、近代的なものへと生まれ変わった。

皇室用の控えの間にもともと備えられていた天皇の玉座(椅子)とテーブルなどは、東京駅全焼の際も格納庫で保管していたため、焼失を逃れた。ホームまでの帝室用通路は、「特別通路」と呼び名を変え、コンクリート造りで再建された。

空襲前の大廊下。床材は大理石で、中央には絨毯(じゅうたん)が敷かれた。向かって左の扉を開けると帝室用玄関の広間、右の扉を開けると控えの間(便殿)があった。この撮影者の立ち位置の右横にはプラットホームへとつながる帝室用廊下(通路)がある=写真/宮内公文書館蔵
帝室用廊下(通路)も空襲焼失前は、大理石が敷き詰められていた。4つあるプラットホームのうち、一番手前のホームだけはつながっていなかった=写真/宮内公文書館蔵

現在もある専用のお居間

空襲後に再建された皇室用施設は、焼失前とは室内レイアウトが異なり、便殿と呼ばれた控えの間も、「松の間」「竹の間」「梅の間」として生まれ変わった。松の間は、天皇、皇后両陛下の専用ご休所で、竹の間は皇族方や国賓の方々が使用する控え室。梅の間は総理大臣など要人が使用する部屋と、使用目的が定められた。特別通路は、東海道新幹線が開通した1964(昭和39)年に新幹線ホーム下まで延長され、旧来の部分はコンクリートのままであったが、新たに建設された部分は大理石で造られた。

近年では、タイトにスケジュールが組まれることも多く、皇室の方々が使用される機会は少なくなったと伝え聞く。近年では、雅子さまや愛子さまも天皇陛下とご一緒に竹の間を利用されたことがあるそうだ。東京駅丸の内駅舎の復元工事の際に公開された図面上には、中央玄関や貴賓室は空欄で示されており、今となってはリニューアル後の姿を伺い知ることはできない。

3つある控えの間のうち、梅の間を写したもの。駅の会議室として使用されることもあるのだとか=写真/星山一男コレクションより(筆者所蔵)

「特別通路」の存在

今でも、「皇居と東京駅は地下通路で結ばれている……」といった“都市伝説”を耳にすることがある。残念ながら、そのような秘密の通路は存在しない。とはいえ、皇室の方々が使用する入り口は、「中央玄関」のほかに、もう一つある。レンガ造りの丸の内駅舎が復原工事を行なっていた頃は、中央玄関が使用できなかった。このため、別の入り口が用意されたのだ。

具体的な場所は明かせないが、入り口そのものは皇室専用として造られたわけではなく、従来から一般客が利用する入り口で、新幹線専用改札口に近い場所に位置する。その改札内には貴賓室があり、そこからは東海道をはじめ、すべての新幹線に乗車することができる専用の通路やエレベータが備えられている。

そして、公然の秘密といっても過言ではない中央玄関から通じる「特別通路」は、今なお健在である。貴賓室に囲まれた「鹿の間」と呼ばれる広間からエスカレータに乗り、群衆のいる駅構内の下層階へ降りると、新幹線の乗り換え改札口の近くまでその通路は伸びている。運がよければ、この乗り換え改札口の近くで皇室の方々を拝見できるかもしれない。

新幹線専用改札口を通られる天皇ご一家(当時は皇太子ご一家)=2009(平成21)年9月5日、東京駅
一般の入り口から新幹線のりばへと向かわれる秋篠宮さま=2007(平成19)年2月9日、東京駅
上皇ご夫妻(当時の天皇、皇后両陛下)も、丸の内駅舎の工事期間中は一般の入り口を利用した=2010(平成22)年5月24日、東京駅

東京駅には、JR東海(東海道新幹線)とJR東日本(東北新幹線など)それぞれの旅客会社ごとに駅長がいる。皇室の方々のお出迎えやお見送りでは、東海道新幹線のご利用であったとしても、両駅長が中央玄関までお出迎えやお見送りする光景が見られる。これも、秘密の通路でつながっていることによる儀礼であろう。

中央玄関から出発する御料自動車を見送る、JR東日本とJR東海それぞれの東京駅長。右側手前から。JR東日本駅長、JR東海駅長、JR東海社長=2006(平成18)年5月22日、東京駅

文・写真/工藤直通

くどう・なおみち。日本地方新聞協会皇室担当写真記者。1970年、東京都生まれ。10歳から始めた鉄道写真をきっかけに、中学生の頃より特別列車(お召列車)の撮影を通じて皇室に関心をもつようになる。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物を通じた皇室取材を重ねる。著書に「天皇陛下と皇族方と乗り物と」(講談社ビーシー/講談社)、「天皇陛下と鉄道」(交通新聞社)など。

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