皇室が、正式にクルマを導入したのは1913(大正2)年のこと。当時、「クルマの宮様」と呼ばれていた有栖川宮威仁親王(ありすがわのみやたけひとしんのう)の発案により、以来2024(令和6)年までの111年の間に「天皇の御料車」は16車種、延べ52台が導入されてきた。昭和天皇は、天皇の世継ぎの呼称である「皇儲(こうちょ)」のころから、皇太子、摂政宮の時代を含めると76年間にわたりクルマを利用してきた。この間、どういったクルマに乗られていたのか、そこにはどのような歴史が存在していたのか。「皇室の自動車史」とともにひも解いてみることにしよう。
画像ギャラリー皇室が、正式にクルマを導入したのは1913(大正2)年のこと。当時、「クルマの宮様」と呼ばれていた有栖川宮威仁親王(ありすがわのみやたけひとしんのう)の発案により、以来2024(令和6)年までの111年の間に「天皇の御料車」は16車種、延べ52台が導入されてきた。昭和天皇は、天皇の世継ぎの呼称である「皇儲(こうちょ)」のころから、皇太子、摂政宮の時代を含めると76年間にわたりクルマを利用してきた。この間、どういったクルマに乗られていたのか、そこにはどのような歴史が存在していたのか。「皇室の自動車史」とともにひも解いてみることにしよう。
※トップ画像は、1932(昭和7)年の御料自動車による鹵簿(ろぼ=お列)。御料車は、「赤ベンツ」の愛称で親しまれた導入後まもないドイツの「メルセデスベンツ・グロッサー770」。それまでのイギリス車ではなく、ドイツ車が選ばれたのは日英関係が失われていた時代ゆえのことだった=写真/宮内公文書館蔵
大正天皇はイギリス車、昭和天皇はドイツ車
1913(大正2)年、昭和天皇が12歳を迎える目前となったこの年の3月25日、お住まいをそれまでの青山御殿(現在の赤坂御用地)から東宮仮御所(現在の高輪皇族邸)へと移し、まだ立太子礼を迎えていない皇儲殿下(こうちょでんか)、すなわち裕仁親王時代の昭和天皇のクルマとしてドイツ車が導入された。当時はまだ、国産車がなかった時代であり、外国車に頼るほかはなかった。
御料車の第1号となった”マーセデス”とは、「メルセデス」のことであり、当時は耳にした発音をそのままにカタカナで表記していた。今でこそ、メルセデスと聞くとベンツを思い起こさせるが、当時はイギリスのダイムラー社の「ダイムラー」と、ドイツ・ダイムラー社の”マーセデス”とが混在していた。
自働車の選定から導入までは、実に3年もの歳月をかけ、当時の大正天皇の御料車にはイギリス車、裕仁親王時代の昭和天皇の御召車にはドイツ車が選ばれた。御料車に、イギリスのダイムラー社が選ばれた理由の一つには、すでに自動車を導入していたイギリス王室の影響があったといわれる。
2台目はアメリカ製
1914(大正3)年のこと、日本はドイツへの宣戦布告によって第一次世界大戦へ参戦することになった。当然、輸入に頼っていたクルマにも影響があった。同盟・対立の立場にある関係国に配慮し、アメリカ車、イギリス車、イタリア車を率先して導入するようになり、ドイツ車は“蚊帳の外”となった。
1918(大正7年)に、裕仁皇太子であった昭和天皇は、久邇宮良子女王(くにのみやながこじょおう)とのご婚約が内定する。のちの香淳皇后とのご婚約だったが、その折、2台目となるアメリカ製のクルマが新調された。その名は「ピアスアロー・リムジン」といい、7人乗りのリムジンで、6気筒38馬力だった。
1920(大正9)年になると、大正天皇の病状が国民に公表され、裕仁皇太子時代の昭和天皇も、天皇の名代として国内各地での公務を行なうようになった。このため、さらにもう2台のアメリカ製ピアスアローが導入された。
時代に翻弄された3台目
1921(大正10)年から翌年にかけてアメリカで行われたワシントン会議での海軍軍縮問題の討議の結果、日本を取り巻く世界情勢は大きく変わることになった。それまで良好な関係を築いていた日英同盟を、アメリカはイギリスに対して存続しないように求めた。日本は、日英同盟を存続させたい思いから、イギリス側とさまざまな交渉を重ねた。その交渉の一つが、イギリス製自動車の購入だった。当時の宮内省は5台の購入契約を結び、このうちの1台は、昭和天皇(当時は、裕仁皇太子)が、昭和の「天皇」となられてからも乗り続けた「ダイムラー・リムジン」であった。
防弾改造された4台目
1923(大正12)年12月、帝国議会開院式に向かう摂政宮裕仁親王時代の昭和天皇が乗ったクルマが、突如、狙撃される暗殺未遂事件が起きた。世にいう「虎ノ門事件」である。ただちに、クルマと馬車に“防弾装甲”を施すことになった。改造したクルマは、大正天皇と、摂政宮裕仁親王時代の昭和天皇が兼用車として使用していた、1920年式の「ロールスロイス・リムジン」だった。このクルマは、日英同盟を存続させるための画策として、イギリスから購入した5台のうちの2台だった。
5台目は、昭和の一時代を築いた御料車
時代は昭和を迎え、天皇の御料車も刷新することになった。すでに国産の自動車メーカーは存在していたが、御料車に採用されるまでには成長していなかった。当時はまだ、天皇の行幸など、お出ましの際のお列(鹵簿)は「馬車が公式」、自動車は「非公式」と格付けされていた時代でもあった。選定では、同盟関係が失われていたイギリスではなく、再びドイツ車が御料車の座に返り咲いた。
「赤ベンツ」の愛称で親しまれ、「昭和天皇の御料車」という一時代を築いたドイツ・ダイムラーベンツ社が製造した「メルセデスベンツ・グロッサー770」。1932(昭和7)年から1935(昭和10)年までの間に、当時の宮内省が7台を購入した。この7台のうち、1台は戦災で焼失、3台が廃車(時期不明)ののちに解体され、残る3台が現存する。宮内庁には今も2台が保管されており、残りの1台はドイツにあるメルセデスベンツミュージアムへ“里帰り”している。
昭和天皇とともに、大正から昭和の戦前期を歩んだクルマ5台は、それぞれに日本を取り巻く世界情勢の影響を受けた。戦後の占領下にも影響を受けたクルマもいるが、その話はまたの機会としたい。
文・写真/工藤直通
くどう・なおみち。日本地方新聞協会皇室担当写真記者。1970年、東京都生まれ。10歳から始めた鉄道写真をきっかけに、中学生の頃より特別列車(お召列車)の撮影を通じて皇室に関心をもつようになる。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物を通じた皇室取材を重ねる。著書に「天皇陛下と皇族方と乗り物と」(講談社ビーシー/講談社)、「天皇陛下と鉄道」(交通新聞社)など。