輸出から現地生産にシフト
プラザ合意後の急激な円高により日本メーカーは輸出よりも現地生産にシフトせざるを得ない状況になり、日本メーカーは続々とアメリカに工場を建設。スバルは単独ではなくいすゞと合弁会社のスバル・いすゞ・オートモーティブ(SIA)をアメリカのインディアナ州に設立。スバルのほうが出資比率が高く、イニシアチブを握っていた。
しかし、スバルにとっては円高による赤字、工場設立のための予算捻出と経営的にはダブルパンチだった。さらにはフラッグシップのレガシィの開発費が想定上にかかったということでトリプルパンチ!!
初期は直4エンジン搭載で開発
前置きが長くなったが、この苦境に陥っていた時とインプレッサの開発時期が重なるのだ。スバルはレオーネの後継車のレガシィ用に2Lの新開発水平対向エンジン(EJ20)を開発。これにも多額の予算が充てられたわけだが、当初初代インプレッサは、スバル伝統の水平対向エンジンではなく、直列4気筒エンジンの搭載を前提に開発が進められていた。初期段階ではエンジンを新開発することを前提に、小型車のジャスティ(1984~1994年)の1L、直列3気筒エンジンをベースにした1.5L、直4を搭載してテストが行われていた。
水平対向ではなく直4だったのは、1.5Lクラスがメインとなるインプレッサの場合は、国際的な競争力を考えると、メジャーな直4エンジンのほうが将来的に燃費など技術的発展も見込めるというもの。ボクサーエンジンはスバルのアイデンティティであり伝統でもあるのだが、スバルのエンジニアはある種の「直4コンプレックス」があったと言われている。
エンジニアは落胆
しかし、インプレッサの直4搭載計画は前述のプラザ合意などによる大規模な赤字、レガシィ開発費用、SIAの工場建設費用のトリプルパンチによりスバルはいつ倒産してもおかしくない、と噂されるまでになった。
インプレッサは開発中止の憂き目こそ回避できたが、直4エンジン搭載計画は白紙に戻され、レガシィ用の水平対向エンジンを排気量ダウンさせる方向となった。「落胆するエンジニアたちが、再びモチベーションを上げるのは大変」、とSTIの初代社長である久世隆一郎氏(2005年にご逝去)から聞いたことがある。
一転初代インプレッサは、エンジン、プラットフォームともレガシィがベースに開発が切り替えられたわけだが、エンジニアのモチベーションが高まった要因は、「レガシィよりもいいクルマを作る!!」、ただその一点だったという。
まずエンジニアは軽量化に取り組んだ。1.5Lクラスで最軽量を目指し、インプレッサは車重が重くなるワゴンでレガシィ比10%以上、レオーネよりも軽い1200kgという軽量ボディを実現したのだ。