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タクシー運転手をやめ、軽トラ屋台でラーメンを

「支那そば 勝丸」の店主の後藤さんは、タクシー会社に勤めていたときに奥さまと結婚をしたのですが、「タクシーをやめて屋台をやる」と言ったら、奥さまが猛反対したようです。

しかし、後藤さんの意志は固く、1972年に軽トラックを改造した移動式屋台でラーメン店を開業しました。

屋台を始めた頃の後藤さん=1975年頃

最初は以前勤めていたタクシー会社の敷地(東京都港区六本木、現在のテレビ朝日近辺)を借りて営業していたものの、路上駐車が多く、月の3分の1程度しか営業ができなかったそうです。

しかし、その頑張りを見ていたタクシー会社の隣のビルオーナーに気に入られ、駐車場スペースを借りることができ、そこからは毎日250杯を売る繁盛店となりました。

屋台はさらに評判となり、当時、キャスターの久米宏さんがやっていた番組で「都内三大名物店」として紹介され、ますます繁盛することとなりました。

1984年、念願の店を東京・白金に

東京・六本木のビルの駐車場スペースでの繁盛ぶりを見たビルオーナーからは、「そろそろ屋台じゃなく店を持てばよい」とアドバイスも受けました。

それで、当時300万あった自分の貯金に加え、200万の借り入れを銀行に申し込んだのですが、最初は審査に落ちてしまった模様でした。

そこで、ビルオーナーが保証人になってくれて、無事借り入れができ、念願の店舗を持つこととなりました。

開業は1984年8月7日。場所は同じ港区の魚籃坂下(ぎょらんざかした)近く。東京都港区白金1丁目の地に、念願の店を持てたのです。

念願の店を東京・白金に構えた=1984年

オープン後、屋台時代のお客さまがたくさん来店し、すぐに繁盛店となりました。そして白金で開業した3年後、今度はお隣・品川区は旗の台に支店をオープン。

このときから、後藤さんの三男・勝味さんが手伝うようになり、その後、四男・勝年さん(ラー博店オープン時の店長)、五男の勝久さん(元・目黒店の店長)も手伝うようになりました。

やがて本店となった白金のお店は8年後に立ち退きとなり、1992年頃、本店を目黒に移します。

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話題性にかけて、ラーメン博物館へ出店を決意...
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おとなの週末Web編集部
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