話題性にかけて、ラーメン博物館へ出店を決意
私たちが後藤さんに出店の話を持ちかけたのは1992年1月24日。
新横浜ラーメン博物館がオープンする2年前です。
その交渉記録によると、「興味はあるが人手不足のため、出店するのであれば、旗の台のお店を閉めて出店しなければならない。また、失礼ですが、この手の詐欺も多いので慎重に考えたい……」と、店主の後藤さんの率直な感想が書かれていました。
後藤さんは当時のことを次のように語ります。
「世界初のラーメンの博物館というのはおもしろいとは思いましたが、私もタクシー運転手をしていたことがあったので、あの空き地だらけの新横浜に、人が集まることが想像できませんでした。
なので、商売としてうまくいくかどうかは疑問がありましたね。
当時の岩岡さんは30歳そこそこでしたが、とにかく情熱の人で好青年という印象でした。実際、何度も何度も会いに来てくれたので、その本気度は伝わってきました。
最終的にはこのプロジェクトは“もしかしたら大きな話題になるのではないか……”という期待にかけてみました。もっとも、妻は終始反対でしたが、しぶしぶ納得していただきました」
ラー博店オープン後、連日続いた長蛇の列
結果的に、出店する店の店長候補も見つかり、旗の台のお店も閉めずに新横浜ラーメン博物館の開業を迎えることとなりました。
開業初日、最初に並んだお客さまは朝の5時過ぎ。オープンの11時には1000人を超える長蛇の列となり、8店舗が仕入れた食材は20時の時点ですべて売り切れました。
初日の入場者は5340人。予想をはるかに超えるお客さまにお越しいただきましたが、翌日からもこの状況がずっと続いていきます。
オープン当初の話について、後藤さんは、「オープン前に多くの取材もきていたので、本店のピーク時くらいの混雑は想定していました。しかし店が始まってみると、私の想像の2~3倍でした。あの忙しさは今でも忘れられません。仕込みが追いつかず、閉店後、夜中の2~3時まで仕込みをして、2~3時間の仮眠をとってまた翌日の仕事という期間が長く続きました。いや~本当に忙しかったし、きつかった。今思えば本当によくやったと思います」
ラー博での「勝丸」は、後藤さんが、その後の店舗展開を考えられていたこともあり、2003年に当館を卒業されました。
あるとき後藤さんが、「館長、卒業後、さまざまな施設に出店したけれど、ラーメン博物館は圧倒的に別格だよ。卒業して気づかされたことも多々あったし、博物館での経験がその後、大きく生かされた。本当に感謝しかないよ」と、言われたのを記憶しています。うれしいうれしい言葉でした。