ラー博30年、あの伝説のラーメン店

軽トラ屋台から出発した目黒「支那そば 勝丸」 画期的な煮干しラーメンを育てた職人歴50年の“鉄人” 「ラー博」伝説(2)

目黒「支那そば 勝丸」の極上煮干しラーメン(醤油)

全国のラーメンの名店が出店する「新横浜ラーメン博物館」(ラー博)は、年間80万人以上もの客が訪れる“ラーメンの聖地”です。横浜市の新横浜駅前にオープン後、2024年3月に30年の節目を迎えましたが、これまでに招致したラーメン店は50店以上、延べ入館者数は3000万人を超えます。岩岡洋志館長が、それら名店の「ラーメンと人が織りなす物語」を紡ぎました。それが、新刊『ラー博30年 新横浜ラーメン博物館 あの伝説のラーメン店53』(講談社ビーシー/講談社)です。収録の中から、札幌「すみれ」を紹介します。

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全国のラーメンの名店が出店する「新横浜ラーメン博物館」(ラー博)は、年間80万人以上もの客が訪れる“ラーメンの聖地”です。横浜市の新横浜駅前にオープン後、2024年3月に30年の節目を迎えましたが、これまでに招致したラーメン店は50店以上、延べ入館者数は3000万人を超えます。岩岡洋志館長が、それら名店の「ラーメンと人が織りなす物語」を紡ぎました。それが、新刊『ラー博30年 新横浜ラーメン博物館 あの伝説のラーメン店53』(講談社ビーシー/講談社)です。収録の中から、東京・目黒の「支那そば 勝丸」を紹介します。

『ラー博30年 新横浜ラーメン博物館 あの伝説のラーメン店53』(講談社ビーシー/講談社、1760円)

煮干しラーメンと波乱万丈な店主との出会い

新横浜ラーメン博物館開業時(1994年3月6日)の8人の店主の決断物語、続いては目黒の「支那そば 勝丸」です。

今でこそ、首都圏で煮干しのラーメンというのは当たり前となりましたが、当時(1994年)はあそこまで煮干しがきいたラーメンというのはほとんどありませんでした。

私たちは、その特徴的なラーメンをぜひ紹介したいと思い、ラーメン博物館への出店のお声がけをしました。店主・後藤勝彦さんはこのとき52歳。

「支那そば 勝丸」の店主だった後藤勝彦さん。2024年11月、82歳を迎えた

考えるとなかなかの年齢でのご決断だったのだなと感じます。まずは波乱万丈な後藤さんの生い立ちからご紹介していきたいと思います。

【「支那そば 勝丸」過去のラー博出店期間】
・ラー博初出店:1994年3月6日~2003年11月30日
・「あの銘店をもう一度」出店:2022年11月7日~2023年2月26日

青森生まれの店主が「支那そば 勝丸」を始めるまで

後藤さんは1942年11月11日、8人姉弟の次男として青森県北津軽郡に生まれました。

中学卒業後、高校に通うも1年半で退学。その間、映画館のアルバイトや、地元で有名だった「秋常食堂(現在は閉店)」という、煮干しダシのラーメンを出す食堂で半年ほど働きます。

後藤さんにとって秋常食堂の煮干しダシラーメンは原点であり、もしここで、アルバイトをしていなければ、ラーメンの道に進んでいなかったかもしれません。

その後、東京への憧れがあり、先に東京で働いていた兄上を頼って17歳の頃に上京されました。

青森では貧しい生活が続いていたこともあり、お菓子に憧れを持っていた後藤さんは、製パン・菓子の工場に就職し、住み込みで働きました。

その後もさまざまな職業を転々とし、2種免許を取得して、タクシー会社へ入社されたのです。そのタクシーの運転手の傍ら、ラーメンを食べ歩く日々が始まりました。

タクシー運転手だった頃の後藤さん=1967年頃

その頃、「ホープ軒」(現・渋谷区千駄ヶ谷)や、「土佐っ子」(当時・板橋区の下頭橋近くで営業)が屋台で繁盛しており、「いつか自分も煮干しの味で、ラーメン店をやりたい……」という気持ちに傾いたそうです。

タクシー運転手をやめ、軽トラ屋台でラーメンを

「支那そば 勝丸」の店主の後藤さんは、タクシー会社に勤めていたときに奥さまと結婚をしたのですが、「タクシーをやめて屋台をやる」と言ったら、奥さまが猛反対したようです。

しかし、後藤さんの意志は固く、1972年に軽トラックを改造した移動式屋台でラーメン店を開業しました。

屋台を始めた頃の後藤さん=1975年頃

最初は以前勤めていたタクシー会社の敷地(東京都港区六本木、現在のテレビ朝日近辺)を借りて営業していたものの、路上駐車が多く、月の3分の1程度しか営業ができなかったそうです。

しかし、その頑張りを見ていたタクシー会社の隣のビルオーナーに気に入られ、駐車場スペースを借りることができ、そこからは毎日250杯を売る繁盛店となりました。

屋台はさらに評判となり、当時、キャスターの久米宏さんがやっていた番組で「都内三大名物店」として紹介され、ますます繁盛することとなりました。

1984年、念願の店を東京・白金に

東京・六本木のビルの駐車場スペースでの繁盛ぶりを見たビルオーナーからは、「そろそろ屋台じゃなく店を持てばよい」とアドバイスも受けました。

それで、当時300万あった自分の貯金に加え、200万の借り入れを銀行に申し込んだのですが、最初は審査に落ちてしまった模様でした。

そこで、ビルオーナーが保証人になってくれて、無事借り入れができ、念願の店舗を持つこととなりました。

開業は1984年8月7日。場所は同じ港区の魚籃坂下(ぎょらんざかした)近く。東京都港区白金1丁目の地に、念願の店を持てたのです。

念願の店を東京・白金に構えた=1984年

オープン後、屋台時代のお客さまがたくさん来店し、すぐに繁盛店となりました。そして白金で開業した3年後、今度はお隣・品川区は旗の台に支店をオープン。

このときから、後藤さんの三男・勝味さんが手伝うようになり、その後、四男・勝年さん(ラー博店オープン時の店長)、五男の勝久さん(元・目黒店の店長)も手伝うようになりました。

やがて本店となった白金のお店は8年後に立ち退きとなり、1992年頃、本店を目黒に移します。

話題性にかけて、ラーメン博物館へ出店を決意

私たちが後藤さんに出店の話を持ちかけたのは1992年1月24日。

新横浜ラーメン博物館がオープンする2年前です。

その交渉記録によると、「興味はあるが人手不足のため、出店するのであれば、旗の台のお店を閉めて出店しなければならない。また、失礼ですが、この手の詐欺も多いので慎重に考えたい……」と、店主の後藤さんの率直な感想が書かれていました。

後藤さんは当時のことを次のように語ります。

「世界初のラーメンの博物館というのはおもしろいとは思いましたが、私もタクシー運転手をしていたことがあったので、あの空き地だらけの新横浜に、人が集まることが想像できませんでした。

なので、商売としてうまくいくかどうかは疑問がありましたね。

当時の岩岡さんは30歳そこそこでしたが、とにかく情熱の人で好青年という印象でした。実際、何度も何度も会いに来てくれたので、その本気度は伝わってきました。

最終的にはこのプロジェクトは“もしかしたら大きな話題になるのではないか……”という期待にかけてみました。もっとも、妻は終始反対でしたが、しぶしぶ納得していただきました」

東京・白金の店での後藤さん夫婦=1984年頃

ラー博店オープン後、連日続いた長蛇の列

結果的に、出店する店の店長候補も見つかり、旗の台のお店も閉めずに新横浜ラーメン博物館の開業を迎えることとなりました。

開業初日、最初に並んだお客さまは朝の5時過ぎ。オープンの11時には1000人を超える長蛇の列となり、8店舗が仕入れた食材は20時の時点ですべて売り切れました。

ラー博開業当日の大行列=1994年

初日の入場者は5340人。予想をはるかに超えるお客さまにお越しいただきましたが、翌日からもこの状況がずっと続いていきます。

オープン当初の話について、後藤さんは、「オープン前に多くの取材もきていたので、本店のピーク時くらいの混雑は想定していました。しかし店が始まってみると、私の想像の2~3倍でした。あの忙しさは今でも忘れられません。仕込みが追いつかず、閉店後、夜中の2~3時まで仕込みをして、2~3時間の仮眠をとってまた翌日の仕事という期間が長く続きました。いや~本当に忙しかったし、きつかった。今思えば本当によくやったと思います」

「支那そば 勝丸」1994年3月外観

ラー博での「勝丸」は、後藤さんが、その後の店舗展開を考えられていたこともあり、2003年に当館を卒業されました。

あるとき後藤さんが、「館長、卒業後、さまざまな施設に出店したけれど、ラーメン博物館は圧倒的に別格だよ。卒業して気づかされたことも多々あったし、博物館での経験がその後、大きく生かされた。本当に感謝しかないよ」と、言われたのを記憶しています。うれしいうれしい言葉でした。

極上煮干しラーメンと独特なちぢれ麺

そして、ラー博30周年「あの銘店をもう一度」の企画で、20年ぶりに五島さんの店「支那そば 勝丸」がラー博に戻ってきました。

ラー博30周年の出店で後藤さんが作り続けた「極上煮干しラーメン」。創業当時の味を再現した

「勝丸」のラーメンの特徴は、なんと言っても“極上な煮干しの香り”と“唯一無二のちぢれ麺”です。

先にも述べましたように当時煮干しのきいたラーメンはほとんどありませんでした。そのため、ひと口食べて残すお客さまも少なくはありませんでした。後藤さんは悩んだ末に、香りの強いマイワシからマイルドなカタクチイワシに替えたのです。

今回の出店では1994年のラー博開業当時のマイワシで、「勝丸」のスープを作ってもらいました。

ラー博30周年での出店では、開業当時と同じマイワシでとった煮干しダシのスープで

そして麺。いわゆる一般的な「ちぢれ麺」とはちぢれの間隔や具合が異なります。「支那そば 勝丸」の麺は、口の中でこのちぢれが踊ります。一度食べるとこの食感は忘れられません。

「支那そば 勝丸」独特のちぢれ麺も復活。口の中で麺が躍る独特の食感

私・岩岡が感動したあの当時のラーメンの復活はとてもうれしいことでした。

80歳の鉄人は毎朝7時にラー博へ

ラー博30周年企画の実施において、当初の計画では、オープン時に出店いただいた8店舗を、実施スケジュールのフィナーレというか、最後に持ってくる予定でした。

ですが後藤さんから、「俺はもう80歳だから、そんな先だとこの世にいないかもしれない……。だから先に出店させてくれないか?」と言われたのです。

それを受けて、急遽2022年の11月から、1994年のラー博オープン時に出店いただいた“94年出店組”という枠組みを設け、最初の8店舗に出店いただくことになりました。

ラー博オープン時の出店レセプションで。右端が後藤さん、写真中央が館長・岩岡=1994年

そして、そのトップバッターを飾ったのが後藤さんでした。奇しくも11月は後藤さんの誕生月でもあり、80歳を迎えるタイミングでした。

軽トラ屋台での開業から、50年という店としても、職人としても、節目の年でもありました。

ただ、正直なところ、不安も少しありました。というのも、手前味噌ですが、当館は多くのお客さまがお越しいただくこともあり、80歳という年齢では、乗り切れない可能性もあるのではないか……と思ったからです。

しかし、ふたを開けてみると、後藤さんは毎朝7時にラー博に入り、夜の9時まで働いても元気いっぱいだったのです。

そして、日を重ねるごとに、顔色もよくなり、みるみる元気になっていったのです。

その光景を見に来られた「一風堂」創業者の河原成美さん、札幌「すみれ」の村中伸宜さんも驚き、この後藤さんの行動が導火線となり、ラー博30周年記念企画の“94年出店組”出店時は、“創業者が厨房に立つ”という流れができたのです。

まさにトップバッターが後藤さんで本当によかったと思っております。

80歳を超え、すでに引退した後藤勝彦さん。店も閉めた

『ラー博30年 新横浜ラーメン博物館 あの伝説のラーメン店53』2025年2月20日発売

『ラー博30年 新横浜ラーメン博物館 あの伝説のラーメン店53』(講談社ビーシー/講談社、1760円)

『新横浜ラーメン博物館』の情報

住所:横浜市港北区新横浜2-14-21
交通:JR東海道新幹線・JR横浜線の新横浜駅から徒歩5分、横浜市営地下鉄の新横浜駅8番出口から徒歩1分
営業時間:平日11時~21時、土日祝10時半~21時
休館日:年末年始(12月31日、1月1日)
入場料:当日入場券大人450円、小・中・高校生・シニア(65歳以上)100円、小学生未満は無料
※障害者手帳をお持ちの方と、同数の付き添いの方は無料
入場フリーパス「6ヶ月パス」500円、「年間パス」800円

新横浜ラーメン博物館:https://www.raumen.co.jp/

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