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ラー博への出店交渉はボディーガードを連れて

私たちが小栗さんに出店の話を持ちかけたのも1992年。

私たちの交渉記録によると、「声をかけてもらったのはうれしいし、興味はあるとおっしゃってくれているが、非情に警戒もされていた」と書かれています。

実際、私たちとの交渉にのぞむ小栗さんは、ボディーガード兼相談役として、ボクシング部出身の男性を同席されていました。

契約後に聞いた話では、「私は若い頃いろいろな人にだまされてきたので、今回もだまされるのではないかという不安がありました。また、見た目は男性のように見える私ですが、女性であるため、何かあったときのボディーガードとして、いつも同席してもらっていた(笑)」とのことでした。

その後の交渉で小栗さんは3つの不安点を挙げていました。

一つ目は、当時の新横浜の状況を見て、「空き地だらけのこんな場所に人が集まるのか」、二つ目は「あまりにも条件がよすぎることが怪しい」、三つ目は、「仮に出店するとなったときにラーメンを作れる人材が足りない」という3店でした。

幾度となく話し合い、一つずつ不安を解決し、出店の決断をしていただきました。

ラー博オープンとともに出店した「野方ホープ」と創業者の小栗冨美代さん(故人)

ラー博オープン後、年商10億を目指して

小栗さんの不安をよそに、新横浜ラーメン博物館に出店するや否や毎日多くのお客さまが来館されました。

ラー博オープン時には館外にも大行列ができた=1994年

小栗さんは仕込みが間に合わないため、車で数時間仮眠をとって仕込みをして営業する日々が続きました。

次第にそんな忙しさにも慣れ、従業員らも成長してきた翌1995年、原宿に2号店をオープン。

小栗さんは、「私にとって最も重要なのが“人財”。人材の“材”は、従業員は財産であるという意味から“財”なのです。だからこそ私の夢は、従業員が安心して暮らすことのできる収入を得られること。そのためには年商10億円のラーメン店になること」―。

その目標のため、1997年6月にラー博を卒業し、その年に3店舗目となる荻窪店を開業したのです。

環七をはじめとした首都圏には、その後も “雨後のたけのこ”のようにラーメン店が増え、その多くは消えていきました。

そんな移り変わりの激しいラーメン業界のなかで、「野方ホープ」は着実に常連のお客さまがつき、2023年には創業35周年を迎えました。

現在は都内を中心に10店舗ほどを展開されています。

野方ホープのラーメンには大量の背脂が入っていますが、スープを飲むと意外にあっさりしていてコクがあります。実は秘密がありました。

背脂で「こってり」だけど複雑で「あと味すっきり」なスープ
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隠し味は野菜。栄養バランスもよく...
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おとなの週末Web編集部
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