舘信秀氏を試乗に招聘
筆者は当時自動車雑誌『ベストカー』の編集部員として、撮影会、試乗会、ゼロヨンテスト、企画モノ取材など、いろいろ担当させてもらった。6代目チェイサーでは、竹平素信氏、伏木悦郎氏による試乗&性能テストなどが行われ、そのポテンシャルの高さが証明されていたが、ある人物に試乗してもらうことを企画。その人物とは、トムスの舘信秀氏だ。筆者はモータースポーツ担当という絡みから、舘氏のチェイサー試乗をアテンド。
トヨタ系の舘氏だから、チェイサーのことを悪く言う訳がないため、『提灯記事』になる恐れもあったが、なぜ舘氏を招聘したのか? それは、トムスがJTCC(全日本ツーリングカー選手権)というレースに6代目チェイサーをマシンとして投入しようとしていたからだ。クルマのよし悪しを評価してほしいのではなく、舘氏=チェイサーという威を借りたのだ。
チェイサー史上初のレース参戦
JTCCは1994年に始まったツーリングカーレースだったが、R32型GT-Rが席巻したグループA時代のような人気はなかった。しかし、現在のスーパーGTのGT500のようにトヨタ、日産、ホンダの3大ワークスがしのぎを削っていた。
チェイサーは1997年シーズンから実践投入されたのだが、チェイサーを選んだのは舘氏曰く「FRのほうがタイヤを有効に使えるメリットがあるなか、マークIIブラザーズのなかではチェイサーが最もスポーティだから」。
ただ、「トヨタからはチェイサーは今人気があるから、結果を出すことは必須」とかなりプレッシャーをかけられたという。レーシングマシンと市販車は別物と言っても、素性がよくなければ、レースで勝てない。
投入一年目にすぐに勝てるほどJTCCも甘くなく、翌1998年シーズンの飛躍を目指して開発を進めていたのだが、想定外のことが勃発。1997年シーズンをもって日産とホンダのワークスがJTCCを撤退してしまった。
そのため1998年シーズンは、ほとんどチェイサーのワンメイク状態となり、トヨタのエースドライバ―、関谷正徳氏がチェイサーでチャンピオンを獲得したが、舘氏、レースファンにとっても消化不良のまま、その年限りでJTCC自体も消滅してしまった。日産&ホンダファンは、「アコード、プリメーラが出ていれば、チェイサーはチャンピオンを獲れなかった」という意見も出ていたが確かめようがない。
チェイサーは6代目で絶版
6代目チェイサーはスポーティさを前面に押し出し、FRスポーツセダンが好きな若者に大人気となった。MTが設定されているのは、このクラスのクルマとして今では考えられなかったが、一部に人気。ただ、メインはATだったため、希少性からMTの中古車が爆上がりしている。
この代のトータルの販売台数では、歴代モデル同様にマークIIの1/3程度というのは変わらなかったが、チェイサー史上初めてコンセプトどおり若者から支持された。
そして、スポーツモデルの2,5Lターボ&NAのツアラーV&Sの販売では、マークIIを凌駕するという快挙を成し遂げた。
歴代チェイサーで最も市場に爪痕を残した6代目だったが、皮肉なことにこのモデルをもってチェイサーは絶版となってしまった。同様にクレスタも消滅し、両車を統合した後継車がヴェロッサなのだ。いや~、このヴェロッサの突き抜けたファニーなデザインには驚かされたものだが、次期チェイサーに期待していた人は目が点になったことだろう。