羽田空港に残された鳥居
東京飛行場(通称=羽田飛行場)は、1952(昭和27)年にGHQの接収から一部返還され、「東京国際空港」と名称を変えた。全面返還は、1958(昭和33)年のことだった。鈴木新田の地にあった穴守稲荷神社は、GHQに接収されると社殿や鳥居などは解体・撤去されたわけだが、なぜか「一の鳥居」だけは残されたままだった。この「一の鳥居」は、京浜急行電鉄の前身となる京浜電気鉄道が、当時あった穴守線の穴守駅前に建立したものだった。
のちに羽田空港の拡張によって移設を余儀なくされる「一の鳥居」は、戦後50年を過ぎた1999(平成11)年まで、当地でその姿をこの世に伝えていた。この間には、撤去の話が何度も持ち上がったが、様々な理由により回避されてきた。その中には、「鳥居を撤去すると祟りが起きる」といった言い伝えや、怪談めいた話もあったようだが、こうした話はいわゆる“都市伝説”に過ぎないとされる。
現在は、東京モノレールと京急空港線の天空橋駅〔てんくうばしえき〕から徒歩圏内にある海老取川に架かる「弁天橋」のたもとに移設され、「羽田平和の鳥居」として”羽田の安全”を日々見守っている。

穴守稲荷駅と羽田空港駅の開業
GHQから返還された穴守線(上り線)は、1952(昭和27)年11月1日から複線(上下線)での営業運転を再開した。1956(昭和31)年4月20日には、稲荷橋駅を「穴守稲荷駅」へと改称した。さらに、かつての鈴木新田(羽田穴守町)との境を流れる海老取川の蒲田駅側に「羽田空港(初代)」を同時に開業させた。駅名には「空港」を冠していたものの、当時の空港ターミナルからは遠く離れた場所にあったため、空港への利用者は少なかったという。
開業以来、長らく続いていた「穴守線」という路線名も、1963(昭和38)年11月1日に「空港線」へと改められた。1964(昭和39)年の「東京オリンピック」の際には、運輸省(当時)から”羽田空港ターミナル”へ空港線を延伸しないかと打診を受けたが、社内の事情(本線の輸送力増強に注力)により断ったという。そのせいなのか、1972(昭和47)年に改めて空港への乗り入れを京急側から運輸省へ打診するも、“相手にしてもらえなかった”という逸話が残されている。