玉電マークが残る敷地境界石をぜひ見よう
歴史館を後にして「砧線跡歩道」(花みず木通り)へと戻り、廃線跡ウォークを再開する。花みず木通りを200mくらい歩くと、砧線跡歩道が終わり、道が細くなった。このあたりまでは、谷戸川(やとがわ)という荏原郡玉川村と北多摩郡砧村(いずれも当時)の境界を流れる小さな川が、砧線と並走して流れていた。そのため、花みず木通りの道幅にも余裕があり、車道と歩道が分離されていたのはこのためだった。
歩を進めるうちに、さらに道路が狭くなったと思ったら、道路の中央に樹木が植わるサイクリングロードとその脇を歩行者が通行できる専用道になった。古地図で確認すると、このあたりで砧線と並走していた谷戸川は線路から逸れて右へと大きく流れを変えたところだった。ここから先は、まさに砧線の線路敷そのままの道幅になっていた。
さらに50mくらい進むと、廃線跡である専用道(花みず木通り)が左へとカーブする。このカーブの場所はといえば、2026(令和8)年1月10日の記事【ジャマ電と揶揄された路面電車“玉電”の支線「砧線」、計画された終点は東京・世田谷の「砧」ではなく「和泉多摩川」だった】でも紹介した「緑豊かな田園地帯をゆく砧線の古写真」と同じ場所だ。まさに隔世の感を禁じ得ない、その一言に尽きる光景だった。
カーブを過ぎると花みず木通りは、多摩堤通りに突き当たる。花みず木通りは、ここで終わりとなる。廃線跡は、そのまま別の道路となり、目の前の吉沢橋交差点で多摩堤通りを渡り、さらに直進する。この吉沢橋交差点の角に建つマンションの前にある歩道部分は、起点の玉川駅(当時)から数えて二つ目となる吉沢駅(起点から1.167kmの地点)があったところだ。
マンションの敷地と歩道の境目をよく見ると、昔の玉電マーク(東京急行電鉄→現・東急電鉄)の社紋が入った境界石が2箇所、等間隔で遺されていた。道路の向かい側の邸宅の角地にも小ぶりの境界石があった。以前は、マンション側の交差点の角にもあったそうだが、境界石は地面から突き出ているため、歩行者の通行に邪魔だ、危ない、ということから撤去されたという。砧線を後世に伝える鉄道遺構である「境界石」のうちの一つが失われたことは、残念でならない。
この境界石に囲われた場所(道路と左右の歩道部分)が、吉沢駅があった場所だ。開業当時の線路平面図に記される吉沢駅には、電車がすれ違えるように「側線」が描かれているが、実際に側線が造られたことは一度もなかったそうで、その用地だけが確保されたに過ぎなかったという。











