94年前に造られた水路橋は今も現役
明大前駅の近くに、井の頭線を跨ぐように造られた玉川上水の水路橋があるのをご存じだろうか。1933(昭和8)年に開通した京王・井の頭線を建設した当時、この周辺は高台であったがゆえに、土地を掘り下げて線路を敷設した。このため、地表を流れていた玉川上水は宙に浮くことになり、これを回避するため水路橋を建設したというわけだ。
架橋された水路橋の完成は1932(昭和7)年で、実に築94年にもなるコンクリート製の故老橋だ。工事は、帝都電鉄(建設当時の社名は東京郊外鉄道)が行い、当時は「玉川上水水路下越橋」や「玉川上水交叉水路函型隧道」と呼ばれていた。完成後は、「玉川上水交叉跨線水路橋」と呼んだ。
水路橋の下には当然、井の頭線が通っているわけだが、その線路は上りと下りの2線であるのに対し、よく見ると4線分のスペースが確保されている。永福町駅側を背にして水路橋を見ると、右側2線を井の頭線が通り、左の2線分は空間のままになっている。この空いている場所に、“第2山手線”と呼ばれた環状鉄道「帝都電鉄(旧・東京山手急行電鉄)」が走る予定だったのである。
当時の計画文書には、「(水路橋の)付近において井の頭線と帝都電鉄線(旧・東京山手急行電鉄線)の共同停車場(松沢駅)を設置し、線路交叉を為す」とある。しかし、初期のころの計画では、現在の明大前駅( 開業時の井の頭線の駅名は西松原といった )の場所に、「帝都電鉄線と井の頭線の駅」を造る計画はなかった。これは、井の頭線(渋谷急行電気鉄道)と帝都電鉄線(旧・東京山手急行電鉄)は、別々の会社だったため、歩調を合わせることはしていなかった。
ところが、1929(昭和4)年に渋谷急行電気鉄道の経営陣が刷新され、東京山手急行電鉄の社長だった利光鶴松氏(小田原急行鉄道→のちの小田急電鉄の社長)が、社長に就任したのだ。これにより両社は急接近し、井の頭線(渋谷急行電気鉄道)は、1931(昭和6)年に東京郊外鉄道(→東京山手急行電鉄から社名変更、のちの帝都電鉄)と合併した。これにより、井の頭線と帝都電鉄線はそれまでの計画を変更し、現在の明大前駅(当時は京王電気軌道の松沢駅)の場所に、井の頭線と帝都電鉄線の駅も併設するように計画を変更したのだった。
帝都電鉄線は、現・明大前駅の手前(渋谷寄り)で井の頭線に合流~交叉(線路の順番を入れ替える)して、そのまま明大前駅へと進み、甲州街道と玉川上水の水路協をくぐり抜け、帝都電鉄線は右に逸れて中野駅方向へと向かう計画となった。井の頭線はその後、1933(昭和8)年に渋谷駅~井の頭公園駅間が開業したが、帝都電鉄線はというと、1940(昭和15)年4月に「交通情勢に多大の変化を生じ、線路用地の買収もままならない」として「起業廃止」となった。結果、”第2の山手線計画”は中止となり、幻の鉄道として消え去った。
同じ会社の事業ならば、水路橋を建設するときに、将来の線増分(東京山手急行電鉄分)を見越して造っておこう、という考えがあったからこそ、いまでもその痕跡を見ることができるわけだ。余談だが、井の頭線を運営する京王電鉄が、1998(平成10)年6月まで「京王“帝都”電鉄」と名乗った理由には、この帝都電鉄が関係していたのだった。









