過去には2棟あったレンガ車庫
大井町の地に誕生したレンガ車庫(御料車庫)には、それまで新橋工場のほか神戸工場(関西)、小倉工場(九州)で造られた9両の御料車と、移転してまもない大井工場で造られた2両の御料車の計11両が格納されていた。1921(大正10)年の時点で、保存していた御料車を含めるとその両数は13両を数え、さらに新造される御料車が3両見込まれていたため、御料車庫の収用車両数は限界に達した。そこで同じ大きさの御料車庫をもう1棟増設することになった。
増設した車庫は、1921(大正10)年に完成し、最初からある車庫を「東庫」、増設された車庫を「西庫」と呼んだ。現在、外壁の一部が保存されるレンガ車庫は「東庫」のものだ。大正末期の時点で、2棟の御料車庫に格納されていた御料車は17両を数えた。
昭和に入り、先の大戦下となる1945(昭和20)年5月23日の夜間には、米軍による帝都爆撃を受けて東西2棟の御料車庫はそれぞれ一部分ではあったものの被災した。戦争終息時には、GHQが御料車庫を視察に訪れたことがあったという。このため、格納していた現役の御料車を地方へと疎開させて、旧型の御料車を見せて接収から逃れるように隠ぺい工作を図ったという逸話も残されている。
1954(昭和29)年になると、品川区議会から国鉄総裁あてに「品川区発展のために大井工場を移転して土地を明け渡してほしい」旨の陳情が行われた。この話は到底受け入れられないとして、以後10年にわたり、国鉄と区側で協議が重ねられた。1964(昭和39)年に区側から、工場の移転先として千葉県船橋市ほか8か所の用地が提案された。
これに対し、翌1965(昭和40)年に行政監察局が両者の間に入り、品川区役所及び総合庁舎の建設用地として、「西庫の用地を含む土地の明け渡し」と、今後、区側は国鉄に対し用地提供を要求しないことで決着をみた。その結果、西庫は1966(昭和41)年9月までに明け渡すこととなり、同年10月から区側の業者によって解体された。これと同時に同地内に新たな御料車庫を建設する話も浮上したが、予算の都合から見送られ、東庫は現状のままとして継続使用することになった。
解体直前となる東西2棟の車庫内には、22両の御料車などが格納されていた。西庫の解体によって行き場を失った御料車などのために東庫を増築することで、どうにか13両分のスペースを確保した。結果、収容できなかった9両の御料車などは、保管場所を移転させることになったが、残念ながら解体された御料車もあった。
1棟になったレンガ車庫が現役だった当時、西庫のあった部分には品川区役所の庁舎が建ち、残された東庫を囲うように鉄道工場側には国鉄官舎「広町アパート」が建っていた。このアパートには、大ヒットした国鉄キャンペーンソングを歌った有名歌手が子供のころに、父親が国鉄職員だったことから家族で住んでいたという。昭和の末期には、過激派による「御料車庫侵入未遂事件」が起こるなど、以来“レンガ車庫”は「公然の秘密」とされ、その存在をひた隠しするようになった。





