京急電鉄の金沢八景駅(横浜市金沢区)の西側一帯には、鉄道ファンなら誰もが知るところにある鉄道車両メーカーがある。この地には戦前、横須賀海軍鎮守府の管轄下にあった研究・実験機関「海軍航空技術廠(かいぐんこうくうぎじゅつしょう)」の支廠が存在した。太平洋戦争末期の1944(昭和19)年になると、軍事物資や資器材を運ぶことを目的に、省線逗子駅(現・JR逗子駅)からつながる引き込み線が、この支廠まで建設された。その名残は、「三線軌条」と呼ばれる異なる二つの軌間(レール幅)の車両が走行できる線路として、今も見ることができる。なぜ、こうした特殊な線路が現在も生き残っているのか。京急逗子線の歴史に探る”三線軌条の誕生秘話”について、ひも解いてみたい。
※トップ画像は、京急電鉄金沢八景駅から鉄道車両メーカーへと続く、異なるレール幅による特殊な線路「三線軌条」。こうした線路は、神奈川県を走る箱根登山電車の一部区間にも見ることができる=2026年5月13日、横浜市金沢区
先の大戦と海軍引き込み線の建設
横浜市金沢区と逗子市逗子を結ぶ京急電鉄逗子線が開通したのは、今から96年前の1930(昭和5)年4月のことで、当時は京急電鉄の前身となる湘南電気鉄道(1925年創立→のちの京浜電気鉄道)の路線だった。先の大戦が激化していった1944(昭和19)年3月になると、東急湘南線(当時)金沢八景駅の西側一帯に存在した海軍航空技術廠支廠(現・総合車両製作所を含む一帯/横浜市金沢区)と省線逗子駅(現・JR逗子駅)とを結ぶ「軍用線」の建設が計画された。
当時の京浜電気鉄道は合併施策により「大東急」の路線となっており、逗子線も東急湘南逗子線と呼ばれていた。1943(昭和18)年になると、戦時下の命令によって複線だった逗子線の金沢八景駅~湘南逗子駅(→京浜逗子駅→新逗子駅→現在の逗子・葉山駅)間の上り線は撤去され、単線運転を行っていた。1944年(昭和19)年7月になると、軍用線の計画は具体化し、すでに撤去されていた金沢八景駅~神武寺駅(逗子市池子)間の上り線用地に、「海軍航空技術廠支廠引き込み線」を敷設することになった。
建設にあたっては、日本海軍横須賀鎮守府と東急(当時)との間で次の申し合わせが行われていた。
- ◆逗子線を将来、複線に戻す場合には軍用引き込み線は敷地外に移転すること。
- ◆敷地利用、共用区間使用(金沢八景駅構内)を含め、軍側は東急に使用料を支払うこと。
- ◆引き込み線の建設によって移転する神武寺駅の土地は、軍が東急へ無償提供すること。
- ◆神武寺駅移転および金沢八景駅構内の工事は、東急が施工する。なお、工事費は軍負担、資材等も軍より支給し、完成後は東急の財産とすること。
- ◆軍用線の敷設工事は、運通省(当時の運輸通信省)で施工するよう軍から要請すること。
これを踏まえて東急(当時)は、1944(昭和19)年8月に東急逗子線工事方法変更認可申請を運通省(当時の運輸通信省)に対して行った。そのなかには、軍用引き込み線は海軍において敷設すること、軍用線を新設するために神武寺駅を逗子駅寄りに277m移設すること、金沢八景駅の構内は軍用線を単独で敷設することができないので、当社線(東急線)で敷設し、海軍引き込み線と共同使用とすることなどを盛り込んだ。


























