SNSで最新情報をチェック

破局の要因となった意外なこと

数ヵ月に及ぶ清い交際の間、私は彼女との間の文化的断層に気付いていた。東京の下町育ちの私と、静岡県下の極めて健全かつ豊かな都市に生まれ育った彼女との間には、ものすげえギャップがあった。もちろん数ヵ月にわたるふしぎな関係も、元を正せばそれぞれの生育した土地の「貞操観念」のちがいであろう。

夏のさかりのある日、浅草でデートをした。おそらく静岡県下の健全な都市には絶対にありえないその町の雰囲気を、彼女は「何だかこわい」と表現した。彼女は一日中、明らかにカルチャー・ショックを受け続けていた。

当時、浅草の映画館は禁煙にもかかわらず勝手にタバコを喫ってもいいことになっていたので、同堂々と一服つけると、彼女はまことにろくでなしを見るような目で私を睨んだ。観音様の裏の掛茶屋に入ってかき氷を注文したら、彼女は再びろくでなしを見るような目をしながら、氷にもお茶にも手をつけようとはしなかった。

そうこうするうちに、彼女がきれいな所にいきたいと言うので、吾妻橋の畔(ほとり)から遊覧船に乗って浜離宮に行った。どうやら彼女にとって、浅草公園はものすごく不潔な場所に見えたらしい。

浜離宮の美しい庭園を散策するうちに、彼女は初めて私に寄り添い、腕をからめてきた。

「今晩、私のうちでごはん食べて。ねえ、いいでしょう」と、彼女は何となく思い切った感じで言った。

いいも何も、いいに決まっていた。ついに彼女は、私を東京のひとでなしではないと認識してくれたのであった。

しかし、好事魔多しというか、私たちの破局はそのわずか数分後に起きた。

公園を出てしばらく歩いた路上に、西日を避けて浮浪者が昼寝していた。東京では別段珍しい光景ではない。むしろ日常風景の一部である。が、当然看過して歩きさろうとする私の腕を、彼女は引き止めた。

「あの人、病気よ。交番か病院に連れてってあげて。救急車呼ばなきゃ」

真顔であった。つまり、静岡県下の健全で豊かな都市には、浮浪者なるものは存在しないのであった。説明するのも面倒なので、私は彼女の手を握って歩き出した。その様子はおそらく、欲望のために他人の不幸を看過する冷酷な男、と彼女には見えたのであろう。

彼女は真青な顔をして私の手を振りほどき、「ひとでなしっ!」と叫んで走り去ってしまった。それきり音信は途絶えた。

もしその後東京で嫁に行ったのなら、きっと反省していることだろう。あのころの私は確かにろくでなしであったが、決してひとでなしではなかった。

(初出/週刊現代1995年7月25日号)

元担当編集者が見た往時の浅草

この事件が起こった昭和50(1975)年前後、私は千葉県船橋市の学校に通う高校生だった。当時、姉が浅草に住んでおり、映画に夢中だった私は、毎週土曜日、姉の部屋に泊めてもらい、浅草の名画座に通っていた。

平成以降、再開発が進み、すっかりきれいになって観光客が押し寄せるようになった浅草だが、その頃は、背伸びしてクソ生意気な高校生にとっても相当の気合いと覚悟をもって足を踏み入れなければならない場所だった。

浅草六区には、私が通った東京クラブ、トキワ座、中映といった洋画の名画座が並んでいたが、通りにはすえた臭いが漂い、浅田さんが書いた通り、決して清潔な通りではなかった。通りの奥では、薄汚れたブリーフ1枚の浮浪者やら、厚化粧のオカマのおじさんといった、16歳のガキを呆然とさせるような外見の人たちに遭遇することも稀ではなかった。萩本欽一さんやビートたけしさんを輩出したストリップ劇場には、客引きのおにいさんがいて、突然肩を抱かれ、「学割1000円でどうだ?」と誘われた。まだ高校に入学したばかり、童貞まっさかりだった私は、好奇心より恐怖心の方が勝り、ほうほうの体で逃げ出した。

昭和31(1956)年の経済白書に「もはや戦後ではない」と謳われてから、すでに約20年の時を経ていたが、当時の東京にはまだ、地方都市にはない魔界のような通りが残っていたのだ。

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

icon-gallery
icon-prev 1 2
関連記事
あなたにおすすめ

この記事のライター

おとなの週末Web編集部 今井
おとなの週末Web編集部 今井

おとなの週末Web編集部 今井

最新刊

全店実食調査でお届けするグルメ情報誌「おとなの週末」。4月15日発売の5月号では、銀座の奥にあり、銀…