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激痛を堪えながらの独り四十八手

気息奄奄(きそくえんえん)としつつ、それでも世にも珍しき体育会系作家である私は、とっさにストレッチを試みた。

そう、筋肉が攣った場合の応急処置として、まず当該部位を伸ばさねばならぬ。

しかしご存じの通り、この応急処置はさらなる痛みを伴う。下腿三頭筋、内転筋、広背筋といった部位であれば、一人でも十分に伸縮させることはできるが、大腿四頭筋、二頭筋などの場合は他人の協力を得なければ無理なのである。

いわんや、大臀筋においてをや。

まず膝ひざをついたまま尻を持ち上げた。とたんに強烈な激痛が脳天を貫き、私は天に向かって吠えた。

次に民家の壁づたいに立ち上がって、グイと腰を落とした。「おかーさーん!」と私は泣いた。

痛みは全然静まらぬどころか、わが大臀筋はヘタクソなエクソシストの聖言に怒り狂ったサタンのごとく、さらに剛直した。

私は怯まなかった。仰向いたり、横になったり、縦になったり、えーと、こういう動作を文章で的確に表現するのは至難であるので、文芸担当編集者たちからの譴責を覚悟でわかりやすく表現すると、要するに当初は後背位(♀)、次に立位(♂)、さらに後側位(♂)、座位(♂)、背面騎乗位(♀)、ここで痛みは絶頂に達したのでいったん正常位(♀)に戻って一息つき、後背位(♂)から正常位(♂)へ、そしてしまいには右を下にして左足を抱えこんだ変則松葉くずしの体位で、ついに果てた。

そんなことを、朝の路上で5分もやっていたのである。

「大丈夫ですか」と声をかけて下さる奇特な通行人もいるにはいたが、まさか大臀筋が攣ったので手を貸してくれとは言えず、むしろそれどころではない痛みを何とかやわらげようと、私は必死で四十八手をくり返していたのであった。当然通行人は気味悪がって去ってしまった。

パンチ号に肩を借りて、ようやく帰宅したはよいものの、その後も机の前に長く座っていると、しばしば同じことが起こるのである。そのつど哀れ私は、ヒイヒイと泣きながら四十八手をくり返す。

前出の宮部みゆきさんが日本SF大賞を受賞なさったにもかかわらず、授賞式に参会できずに義理を欠いた本当の理由はこれであった。まさか東京會館のレセプション会場で、独り四十八手はできまい。

しかし、まずいことには、明日は版元紀尾井屋の忘年会である。直木賞をいただいた手前もあり、こればかりは欠席というわけにはいかぬ。ホテル・オークラの宴会場で突然絶叫し、独り四十八手を始めたら参会者たちは何と思うであろうか。

そのうえ短篇集『月のしずく』に続き、久々の中国歴史物『珍妃の井戸』が12月10 日に刊行され、全国各所でサイン会が始まる。恐怖である。もし私がサイン会場で、絶叫は何とかこらえるにしろ脂汗をかきながら独り四十八手を黙々と開始したならば、きっと売れる本も売れはしないであろう。

ところで、最新刊『珍妃の井戸』は清朝末期の紫禁城を密室になぞらえた著者初のミステリー小説であるが、その作中に「攣」という文字についての考察がなされていたことを、ふと思い出した。以下、最終章「天子サン・オブ・ヘブン」より、光緒帝の玉音を抜粋。

「戀(こい)」は古くは「攣」の字を用いたという。漢書の「師古注(しこちゅう)」に、「攣、又読んで戀と曰(い)う」とある。すなわち恋とは、心攣(ひ)かれることじゃ。愛し合う心と心が、あたかも悍馬(かんば)を攣く手綱のごとくに張りつめ、靱(つよ)く猛々(たけだけ)しくたがいの愛を求め合うさま──それこそが恋じゃ。

ああ。同じ作家が書いたのかと思うと、心が引き攣る。

(初出/週刊現代1997年12月27日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『きんぴか』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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おとなの週末Web編集部 今井
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