1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。 この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第37回。中年になれば、多くの人が経験する身体の変調。未経験者にとってはいまひとつ理解しがたい肩の変調について、実体験に基づき、とてもわかりやすく解説していただきました。
画像ギャラリー四十肩について
「ちょっとした動作」で激痛が
四十肩というやつになってしまった。
私は四十四歳であるから、「四十肩」と言うべきか「五十肩」と言うべきか微妙なところであるが、おまけで四十肩ということにしておこう。
思うに、本誌読者の相当数は私と同様の痛みに、今も顔をしかめているのではなかろうか。対抗誌「週刊P」の読者は未だこの苦痛を知らず、かと言って新聞社系の週刊誌の読者は、すでに完治しているであろう。したがってこの稿は本誌にこそふさわしい。
さて、職業がら変な取材癖のある私は、発症するとたちまち親戚知人同級生編集者通りすがり等、当たるを幸い四十肩についてのインタヴューをとった。
そのデータによると、最も早い発症は35歳、遅い人は55歳、遅かれ早かれほぼ全員が全く同じ症状に悩まされていることを知った。
これから発症する方のために、どういう経緯で病状が進むかをお伝えしておこう。
まず初期症状として、左右いずれかの肩に偏よったコリが自覚される。多くの場合は、利き腕の方である。
数ヵ月後、肩のコリなど忘れちまうような強いコリが、背中の肩甲骨下端部、俗に言う「ケンビキ」に現れる。これは肩のコリとは全く異質な、一点に集中するような痛みである。ほとんど指先ぐらいの部位が、まるでそこに病巣でもあるかのように、正確に痛む。そしてこの痛点はしばしば移動する。
そのうち痛みはどんどんひどくなり、時として息もできぬほどになるので、ことに血糖値の高いオヤジはつい心臓疾患を疑う。ちなみにこの痛みには、お灸(きゅう)がたいそう効く。
さらに数ヵ月後、背中の痛みは再び肩関節に戻る。これは第一段階の肩コリなどとは較べようもない。ジッとしている分にはまあ辛抱できるのだが、ちょっとした動作のたびに思わず蹲(うずくま)ってしまうような激痛が走る。ちょうど股間を蹴られたような、体を丸めたまましばらく身じろぎもできぬほどの痛みである。例えて言うなら、「肩関節が脱臼しかかっている状態」、であろうか。かくて四十肩は「完成」する。
ところで、聞いた限りでは、激痛を伴う「ちょっとした動作」には多少の個人差があるらしい。大別すると、①手を上方に上げる②手を後ろに回す③掌(てのひら)もしくは肘(ひじ)をつく──の三種類である。
見出し パンツをはくたび、大便をするたび
私の場合、①は案外平気なのだが、②はテキメンに悲鳴を上げる。ところが、この手を後ろに回す動作というのは、実は日常生活に多いのである。
ホットカーペット上に胡坐(あぐら)をかいて仕事をする私は、原稿を書きながらしばしばケツをカく。こんな動作は長年の習慣であるから、誰もいちいち考えながらケツをカいたりはしない。すなわち、甘い恋物語なんぞを書きながら、思わずケツをボリッとカいたとたん、ああっと悲鳴を上げて倒れることになる。これを、一晩に二、三度は必ずやる。
服を着替えるときも、また然しかりである。私はクサい小説家になるのはいやなので、日に3回は着替えをする。子供のころおふくろに言われた通り、シャツはパンツの中に入れ、パジャマの上衣はズボンの中に収める。こうすると腹が冷えない。長年の習慣により、この着衣時の動作もいちいち考えずに行ってしまう。
すなわち、パンツをはくたびにああっと声を上げて倒れることになる。
先日など、パンツをはいて倒れ、しばらくのたうち回ったあとようよう痛みが治まったので、気を取り直してモモヒキをはいたとたん、またブッ倒れた。
さらに困ったことは、大便後の後始末である。生れてこのかた、クソは毎日するものと決まっているので、いちいち考えながらケツを拭きはしない。
しかもまずいことに、私は用便中読書にいそしむ癖があり、トイレは神聖なる思惟の場であると認識しているので、特設の書棚にはことさらこむずかしい専門書が常備されている。ちなみに、クソの出が良い書物といえば、まず東洋文庫の中国思想関係書、防衛庁戦史室の編纂にかかる戦史叢書(そうしょ)、加うるに競馬四季報。なるたけ活字のギッシリ詰まった難解な書物がよろしい。シャレではないが、永井荷風の『断腸亭日乗』もクソヒリ本としての効果は大きい。
要するに『中国思想のフランス西漸(せいぜん)』なんて、バカバカしいぐらいに難しい本を読んでいれば、まさかてめえの四十肩などに心を配るいとまはなく、やおらグイと右手をケツに回してしまう。ただし、大声でああっ、と唸っても家人に怪しまれない場所であることは幸いである。
この②の体位に変則バージョンがあることを近ごろ知った。車の運転は、右手を後方に回すことなど有りえないから、けっこう安心していられる。ところが先日、後方視界の悪い場所でバックを試みた。右手でハンドルを握ったまま、左手で助手席を摑み、体をグイと振り向けたら、ああっとそのままブッ倒れてしまった。なぜだッ、とよくよく考えてみれば、答えは簡単であった。腕は回さなかったが体の方が回ったのだから、腕を回したのと同じことなのであった。
注射もいやだし、体操もいやだ
さて、③の「掌もしくは肘をつく動作」ができなくなったのはこの冬からである。
暮の中山競馬場において、ゴンドラ席のテーブルに肘をついて双眼鏡を覗いたところ、ああっと叫んで俯伏せてしまった。ゴール前のデッドヒートならまだしも、スタート直後であったからたいそう恥ずかしい思いをした。以来、掌もしくは肘をつくという動作が全くダメになった。
しかし、この動きも日常生活には多い。年とともに脚力が衰え、手の力に頼るから、起居動作のほとんどは掌もしくは肘をついて行う。気をつけて左手を使うようにしているのだが、それとていちいち考えるわけではない。
まずいことにこの動作でギクッとやると、アクションが小さい分、はためには何だかわからんうちにひどく苦しんでいるように見えるらしい。
たとえば先日、サウナルームの中で一段上の席に座り直そうとして床に手をついたとたん、ああっと白目を剝(む)いた。二流作家であるが一流サウニストである私は、他人がビックリするほど長時間の発汗に耐える。このとき周囲にいた人々が、みな私の脳卒中か心筋梗塞を疑ったのは無理からぬことであった。
現在、症状はさらに進行しているように思える。「ああっ」と声を上げる動作の範囲は、徐々に狭まってきているような気がする。医者に行ってブロックしてもらえば痛みはなくなるというのだが、注射はいやだ。
そこで、家庭医学百科を繙(ひもと)き、「五十肩体操」なるものを実践することにした。ちなみに、ナゼか「四十肩」という病名はない。
五十肩体操(A)──適当な長さの棒を用意し、その両端を痛い方を上、痛くない方を下にして握り、下の手で棒を突き上げる。
五十肩体操(B)──壁に向かって横向きに立つ。一歩離れて痛い方の手を壁に当て、手首と指を動かしてできるだけ上までせり上げる。次に正面を向いて同じ動作。
五十肩体操(C)──テーブルのそばに立ち、痛くない方の手を乗せて体を支える。痛い方の手でアイロンを持ち、前後左右に動かす。
五十肩体操(D)──かもいにロープを掛け、痛い方の手ができるだけ上に持ち上がるように、痛くない方の手で引っぱる。
と、このメニューを継続して行えば、数ヵ月で完治し、再発することはないそうだ。
だがこの体操は考えただけで痛い。おそらくは、さあ始めるぞとその恰好をしたとたん、ああっと叫んでブッ倒れるにちがいない。痛みをこらえて実行するなど、ほとんどハラキリを連想させる。
データによれば、この痛みは一過性のもので、時期を過ぎれば自然に治るそうだ。しかし時を待つほど誰しもヒマではあるまい。
ご同輩はどのように抗っておられるのか、良い方法をご存じの方はお教え願いたい。
(初出/週刊現代1996年2月3日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『日輪の遺産』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。
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