食べる男はいい仕事をするの見本
たとえば1日に100杯のコーヒーを飲みながら、同時に5つの小説を立ったまま書いた『人間喜劇』のバルザックは、すさまじいばかりの健啖家だった。
ある日バルザックは、出版社の社長ウェルデをお気に入りのレストラン《ヴェリー》に招待した。そのとき出されたメニューが今でも残っているが、ウェルデはひどい胃痛に苦しんでいて、ポタージュとしゃこ(尾の短いキジ科の鳥)の脇腹肉1個しか食べなかった。つまりほとんどがバルザック1人で食べたものである。
〇オスタンド産のカキ 100個
〇ノルマンディ地方の海岸育ちの若羊の背肉 12個
〇かぶら添えの子鴨 1羽
〇しゃこの脇腹肉 2個
〇平目 1匹
〇スープ 2種類
〇オードヴル大盛 1皿
〇梨 12個
これに4、5本のぶどう酒、野菜、数種類のリキュール、そして10杯のコーヒー。
ところが招待したのはバルザックなのに、店の勘定は胃痛に苦しむウェルデが払ったというからおもしろい。
一夜の食事にこれだけのものをペロリと平らげたバルザックは、生涯莫大な作品を書き続け、次々と艶聞を巻き起こしている。これもまた、食べる男はいい仕事をするの見本である。
反対に食の細い男は、どことなく気が許せないような、ウサン臭いような……。
(本文は、昭和58年4月12日刊『美食・大食家びっくり事典』からの抜粋です)
夏坂健
1936(昭和9)年、横浜市生まれ。2000(平成12)年1月19日逝去。共同通信記者、月刊ペン編集長を経て、作家活動に入る。食、ゴルフのエッセイ、ノンフィクション、翻訳に多くの名著を残した。その百科事典的ウンチクの広さと深さは通信社の特派員時代に培われたもの。著書に、『ゴルファーを笑え!』『地球ゴルフ倶楽部』『ゴルフを以って人を観ん』『ゴルフの神様』『ゴルフの処方箋』『美食・大食家びっくり事典』など多数。