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気仙沼生まれのラーメン職人が考えた復興プラン

人にはそれぞれ故郷があります。故郷とは自分の原点でもあり、自分らしさを取り戻せる、そんな場所でもあります。

そんな故郷が被災に襲われました。東日本大震災です。

生まれ育った故郷の風景は津波に飲み込まれ、戦慄を覚える悲惨な光景へと一変しました。知人・友人の家、役所、漁港、馴染みのお店…故郷の大切な人と想い出は、津波によってすべてを奪い去られました。

東京・葛西に本店を構ええるラーメン店「ちばき屋」。店主・千葉憲二さんは震災で壊滅的な被害にあった気仙沼で生まれ育った生粋の職人です。

店主の千葉憲二さん

千葉さんも震災で多くの知人・友人を失いました。震災の翌日には救援物資の運搬や炊き出しで気仙沼を訪れ、幾度か訪れるうちに千葉さんは「物資やお金の支援は重要であるが、この先、復興するためには希望や生きがいといった心の支援が最も重要である」と感じるようになりました。

そんな中、千葉さんはある復興プランを考えました。それは以前気仙沼に存在した「かもめ食堂」の復活です。

昭和17年創業、港の人で大繁盛だった老舗食堂

「かもめ食堂」は、昭和17年、気仙沼市南町(気仙沼湾沿い)で創業した老舗の食堂です。約6坪14席の店内は、気仙沼漁港に出入りする人、水産加工会社に勤務する人や学生で大繁盛していました。

気仙沼にあった「かもめ食堂」の外観

昭和30年頃からラーメンの提供を始めるとすぐに店の一番人気メニューとなり、以降も地元客に愛され続けた食堂でしたが、平成18年4月、後継者不在を理由に惜しまれつつも閉店。そして、平成23年3月11日、東日本大震災の津波により店舗跡が全壊してしまいました。

気仙沼のシンボルが、ラー博でよみがえった

「かもめ食堂」は特別ではないが誰もが知っている気仙沼のシンボル的なお店。千葉さんにとっても生まれて初めてラーメンを食べたお店であり、故郷を感じる忘れられないお店でした。

千葉氏曰く「かもめ食堂は気仙沼の人々にとって日常の食堂。日常であるからこそ震災前の平和な気仙沼を象徴するものであり、復活は復興へのシンボルとなるのではないか」という千葉流復興プランでした。

「かもめ食堂」の内観

そして「復活による雇用創出や次世代を担う気仙沼の子供達の希望になれば」と千葉氏は考えました。店のイメージは三角巾に割烹着を着た女性だけの温かいお店。落ち込んだ時、元気のない時、かもめ食堂に来ると元気になる、千葉さんはそんなお店をイメージしていました。

千葉さんはできるだけ早く復興のシンボルを復活させたいと思っていましたが、復旧もままならない状況の中、建築制限もあり、すぐに気仙沼に復活させることは難しく、断念せざるを得ないという話を聞いたのが2011年の秋でした。

千葉さんの想いに共感した新横浜ラーメン博物館の岩岡洋志館長は「ならばラーメン博物館でかもめ食堂をオープンしましょう!ラーメン博物館で”気仙沼”そして”かもめ食堂”の魅力を全国の人に知ってもらい、その後3年を目処に気仙沼にもどり店舗を構え、気仙沼のシンボルになりましょう」と提案し、2012年2月2日、気仙沼「かもめ食堂」が新横浜ラーメン博物館に復活を果たしました。

復活を告げるポスター(2012年作成)
ラー博に復活した「かもめ食堂」の外観
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「かもめ食堂」復活までの歩み...
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おとなの週末Web編集部
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