銃撃戦を意識した城作り
この大坂城は秀吉が作った城ですが、慶長20(1615)年大坂夏の陣で落城以降、徳川の手によって石垣や堀を埋められ、作り直されたことは皆さんご承知のとおりです。でもこの障子堀は、正真正銘秀吉が作った当時のものですから興奮しました。でもまた埋めちゃったんですよ。秀吉が作った本当の大坂城の一端が見えたと思ったのに、あっという間に埋め戻して工事再開。ロマンなんてかけらもありません。
その時の調査では、竹で編んだ「しがらみ」と呼ばれる防御壁も見つかっています。現代風にいうならトーチカですが、しがらみの中に隠れて鉄砲で城に近づく敵兵を狙い撃つのです。障子堀にしてもしがらみにしても、秀吉が槍や刀での戦いではなく、銃撃戦を意識して城作りを行ったことがわかります。
大坂城は大阪城の約4倍の大きさ
秀吉が作った大坂城は世界一といわれますが、現在の約4倍近い大きさといわれます。一番外側の堀を惣堀といいますが、総延長は8km、東西左右3つの地下鉄の駅があることになります。要塞の中に丸々ひとつの街を作るというのは、秀吉にしかできなかったことでしょうね。
さて、発掘の際、堀の跡からは金箔の瓦の破片や頭蓋骨、鉄砲の玉が残った板、牛馬の骨がたくさん見つかりました。大坂夏の陣の戦闘の凄まじさを思わせるものですが、そのほかに仏壇やら下駄やら、とにかくなんでも埋めたんですよ。
大坂冬の陣のあとに講和条約で惣堀を埋めることに決定しますが、豊臣方は文字どおり一番外側の堀を埋めることだと思っていたのに対し、徳川方は総堀、つまり全部の堀を埋めることだと解釈したと伝わっています。ま、これは後世の作り話でしょうが、この作業には家康の息子・秀忠がしゃかりきになってあたったといいます。関ヶ原の合戦に遅参したことが頭にあったのでしょう。