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秀頼は身長197cm?の大男

大坂城といえば秀吉ですが、城主として長く治めたのは、豊臣秀吉の嫡男・秀頼です。関ヶ原の戦いで西軍が敗れた後、秀頼は摂津、和泉、河内の直轄地65万石の一大名におとしめられます。秀頼は身の丈六尺五寸と伝えられ、これがほんとうならば197cmもあったことになります。二条城で家康と初めて会見した時の堂々とした態度が、家康をして豊臣家を潰すことを決意させたといわれます。秀頼という人は甘やかされた坊ちゃんというイメージがありますが、冬の陣での講和に反対するなど剛直なところもあり、家康の孫娘である千姫を愛した、器量の大きい人物であったようです。

大坂夏の陣の際、大阪城が炎上し、救出されたかわいい孫娘である千姫から、秀頼と淀殿の助命を嘆願され、さすがに家康も心に迷いを見せますが、「七十四にて罰あたらばあたるべし(74歳で罰があたるならあたってもいい)」といい、秀頼に切腹を迫ったといわれます。秀頼、享年23。

家康はその後朝廷に願い出て年号を元和に改め、「元和偃武(げんなえんぶ)」を唱えます。元和は平和の始まりで偃武は武器を蔵に納め鍵をかけるという意味です。家康の平和宣言ですが、その陰でひとりの青年武将が死ななければならなかったということです。徳川と豊臣の権力争いに翻弄された、はかない秀頼の一生といえるかもしれません。

夕景に浮かぶ大阪城 HK-JP@Adobe Stock

【大阪城】
天正13(1585)年に完成した大坂城は天守、二の丸、三の丸があり天守は五層八階、黒漆塗りの下見板と金箔瓦、金の飾り金具をつけた望楼型天守であったと伝えられる。慶長20(1615)年、大坂夏の陣で灰燼に帰した大阪城だが、寛永3(1626)年、秀忠の時代に白漆喰総塗籠の天守閣が再建された。しかし、4代将軍・家綱の時代に焼失、以来再建されなかったが、昭和6年に豊臣時代の天守を模して再建、鉄筋コンクリートで作られた初めての城となる。ちなみに大坂が大阪になるのは明治維新以降。

天守閣利用料金:大人600円、中学生以下無料
開館時間:9~17時(12月28日~1月1日休館)
住所:大阪市中央区大阪城1番1号
電話:06-6941-3044 

【豊臣秀頼】
とよとみ・ひでより。1593~1615年。秀吉と淀殿の子で豊臣家の嫡男。当時秀吉は57歳。生前の秀吉のはからいで、秀忠の娘千姫(母は淀殿の妹お江)と慶長8(1603)年に結婚。朝廷からは五摂家と同様の公家として扱われるなど徳川家との均衡を保ったが、家康の攻めを受け、大坂夏の陣で自刃。享年23。

松平定知さん

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」

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