家康の大抜擢、理由はどこにあったのか
この時期、彼女は二代将軍秀忠の嫡子竹千代の乳母の募集を知り応募、夫のもとを去り、京に出て、家康に気にいられ、採用されたことになっていますが、どうも話がうますぎます。家康はお福のことをかねてより、知っていたのではないかというのが、私の推理です。夫が東軍に勝利を呼び込んだ男であったことも、家康の気持ちを動かしたのでしょう。そして和歌や書道の教養も「資格」として評価されたことは間違いないでしょうが、家康とお福がまったく接点がなかったとしたら、いくら資格があっても、この大抜擢はなかったのではないかと思うのです。
竹千代(家光)は家康とお福の子であったために、乳母に採用したのではないかという人もいますが、そこまで生々しい話ではなく、家康は明智光秀の家臣斎藤利三の力量もよく知っていて、そんなことからも、お福のことを気にかけていたのではないでしょうか。
竹千代の自殺未遂事件、お福が駿府の家康に直談判
秀忠の正室はお江で、竹千代を生んだあと、2年後に国千代(国松ともいい、後の忠長)を生みます。お福が竹千代の養育に注力することは、お江から竹千代を遠ざける結果になりました。また手元で育てた国千代の方が、竹千代よりも聡明であったことも事実のようです。いつしか秀忠とお江夫婦は、国千代を将軍にと思いはじめます。
そんな雰囲気を竹千代は感じ取ったのでしょう、自殺未遂事件を起こしてしまいます。そんな家光が不憫でならないお福はある行動に出ます。お伊勢参りを口実に、竹千代こそが秀忠の後継者であることを家康に直談判に出かけるのです。この時代、「入鉄砲に出女」と言いまして、女性が江戸から出ることは簡単ではない時代でしたが、伊勢参りは特別に許されていたんですね。当時は大名の家族が江戸に住まわされ、人質になっていましたから、女性には特に厳しかったのです。
しかし、ここでも疑問が生まれます。いくら大事な孫の乳母だといっても、「乳母」が急に大御所である家康に会って窮状を訴えよう、などという発想がそもそも生まれるものでしょうか。家康に会いたい、と思うだけじゃなく、実際に江戸を出て駿府まで行くのです。行っただけじゃなくて、家康と直接会うんです。会うだけじゃなくて家康に「経過報告」をするのです。これは断じて「単なる乳母」の行動ではない、と思わざるをえません。
徳川政権の基礎になった「長子相続制」
さて、その後の家康の行動は迅速なものでした。『徳川実紀』には、その時の様子が詳しく書かれています。家康は鷹狩りに出かけると言って、少数の家来だけを連れて江戸までやってきます。家康が江戸にやってくると、秀忠や2人の孫も挨拶に出ます。家康が竹千代を呼んで上段に座らせようとすると、国千代も同じように上段に登ろうとしました。しかし、家康は「国は下がれ」と制し、下段のままとすることで、竹千代が主人で国千代は家臣であることを認めさせたのです。
この時、徳川政権が260年もの間続く基礎になった長子相続制というものが出来上がったともいわれているのですが、とにかく本家の長男が将軍職を継ぐと決めることで兄弟間の争いをなくし、家臣が補佐する政権運営のルールが出来上がります。同時にこれは、徳川以外に政権は渡さない、つまり秀頼が成人しても豊臣に政権を譲ることはないと宣言するものでした。