あの戦争も公害もその身に受け止めてきた
それまで気付かずに見落していたのだが、老松の幹のちょうど膝の高さのあたりに、樹皮を削り取った古傷があった。50センチ四方ほどの正方形に、厚い皮がそぎ落とされ、樹芯が露出していたのである。年月を経て切り取られた樹皮は丸くかばわれているが、かばいきれぬ樹芯には、鋭利な刃物でさらに無数の傷が刻まれていた。
私には、その酷い傷痕が何であるかわかった。第二次大戦末期、松の樹芯から油脂を採取し、航空用の代用燃料としたのである。倒れた老松の根元の傷は、その松脂(まつやに)の採取痕にちがいなかった。
三年ばかり前、戦争末期を舞台とした長篇小説を書いたことがある。
かつて勤労奉仕をなさっていた女学生のみなさんから、さまざまの取材をさせていただいた。
三鷹のある航空機工場に動員されていた女性が、そのことを教えてくれたのである。爆撃で工場が破壊されてしまったあと、15、6歳の女学生は在郷軍人に引率されて近辺の松林をめぐり、松脂を採取したのだそうだ。
多摩丘陵は立川の工場地帯から近く、三鷹市を中心とした武蔵野工場群ともそう遠くはない。おそらく工場を失った少女らは、多摩川を渡って丘陵地に至り、毎日松の根を削っていたのではなかろうか。
そのとき彼女が記憶を掘り起こして説明してくれた松脂採取の方法は、まちがいなく私の足元に横たわった松の傷痕と一致した。
この老松は、刀折れ矢尽きたあの戦(いくさ)の末期、生命の樹液をしぼり出して飛行機をとばしていたのである。
もちろん私に、そういう戦のありかたの是非を論ずる気はない。
しかし彼もまた、私と同じ日本に生まれ、日本に生きたひとつの命であったのだと思ったとき、私はそのむくろに掌(て)を合わさずにはおられなかった。
五十年前のある日、校舎を焼かれ、工場も焼かれた少女たちが山にやって来た。たぶん心やさしい彼女たちは、ごめんなさいと囁(ささや)きかけながら松の根に刃を入れたのだろう。物言わぬ松は、それすらもおのれの務めとして生命の樹液を少女らに与えた。そして──そのわずかな油を片道の糧(かて)として、大空に飛び立って行った若者たちもいたことであろう。
想像はそんなふうに膨らんでしまった。
若者たちは死に、少女たちは老い、戦を知らぬ小説家が、無責任な戦争小説を書く時代になった。その間、50年の有為転変(ういてんぺん)を、老松は武蔵野を見はるかす高みから、どのような気持ちで見続けてきたのであろう。
たぶん彼は、おのれの生命を真に脅かす車の排気も工場の排煙も、迫りくる宅地の造成も足元に投げ捨てられた塵芥(じんかい)も、むしろ微笑みながら、わが身に受け止めたのではあるまいか。
そう思えば、太平の世に生きるわれわれの苦悩など、彼が草むらにこぼちちらした一片の松葉にも如(し)かない。人類が万物の霊長であるなどという考えは、ただ二本足で歩くことのできる生物の思いあがりであろうと思う。
しばらく思いめぐらしたのち、口笛を吹くとパンチ号が山中から駆け戻ってきた。
動物を馴致(じゅんち)しようとすることの愚かしさを感じ、社会のきまりごととはいえ、首輪に紐をつけることにもとまどいを覚えた。
振り返ると、幾百年の風雪に耐えた木々が、緑や紅の枝をたわませながら私を見送っていた。
環境保護が叫ばれている。だがわれわれ人間がよりよく生きんがためのそれは、何ひとつとして真の成果をもたらすことはないだろうと思う。要は、人間が生物それぞれの尊厳を確認し、その生き方に同じ生物としての敬意を払うことであろう。
きのうまで老いた赤松がそびえ立っていた崖には、秋空がぽっかりと豁(ひら)けていた。
彼のむくろの上には音もなく朽葉が散りかかり、やがて雪が降りつみ、花がこぼれ、夏草が生い茂って行くのだろう。
彼は大風に倒されるその前日まで、おのれの傷痕を語らず、樹芯がすでに空洞となっていることすらも悟られず、400年の緑の枝を雄々しく広げてそびえ立っていた。
もしこのさき、人間としてそのような人生を送ることができるのなら、それにまさる生涯はあるまいと思う。
(初出/週刊現代1996年12月21日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。