バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時…
画像ギャラリーバブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第91回は、「生涯について」。
まるで討ち死にしたように倒れていた赤松
めでたく45歳の誕生日を迎えようとしている。
子供のころから勝手に小説家になるゾと思いこんでいたように、しごく手前勝手に90歳まで生きるゾと思いこんでいる私にとっては、いよいよ後半生が始まるわけである。
考えてみれば、小説家になるという合理的根拠が何もなかったように、九十歳まで生きるという確証は何ひとつとしてないのであるが、それでも小説家になったのだからきっと90歳まで生きるのであろう(と、ここまで書きおえたところで、家人が横目をつかって原稿を読み、あーあ、まちがいないわよねー、90はカタいわ、と呟いた)。
さて、人生のターニング・ポイントに立ったとなれば、も少しおのれの生涯について真剣に思いをいたさねばなるまい。
残る人生は半分だが、たぶん私はこのさき自衛隊に志願することはなく、度胸千両的業界に足を踏み入れることもなく、新人賞に応募してボツになることもなく、悪事を働いてブタバコに放りこまれることもないであろう。
そう考えたとたん、何だかものすごいプレッシャーがかかってしまい、とりあえず愛犬パンチ号を連れて散歩に出た。
拙宅は大規模に開発された多摩丘陵の中腹にある。ものの五分ほど登れば開発からまぬがれたお不動様の裏山で、万葉集に詠(うた)われた「多摩の横山」が、奇蹟のように残っている。
何でもその昔は鎌倉防衛の要衝であったそうで、なるほどあちこちに中世の山城を彷彿とさせる地形が見うけられる。
うっそうと秋空を被(おお)う木立ちの下を歩く。楓(かえで)、山桜、栗、椿、欅(けやき)──いっけんして雑木山と見えるが、実は四季折々の自然が堪能できるよう、巧みに樹木が配されている。木々はみな立派な巨木であるところをみると、おそらく遠い昔、たしなみのある坊さんか領主かが意図的に植樹したのであろう。
ことに感心させられるのは、北側の急斜面に配置された黒松と赤松である。
春には桜が咲き、秋には楓が燃える森のふちに、四季を通じて変わらぬ常緑の松が配されているのである。この緑の書割のために、桜も楓も、舞台の上にあるもののように際立つ。
なぜこの山の紅葉はかくも鮮かなのであろうとよくよく目を凝らせば、その背景には楓の朱を浮き上がらせる常緑の松が、空を被うほどに緑の枝を延ばしている。
夜通し大風の吹いた朝であった。
本丸跡へと続く木下道(こしたみち)には朽葉(くちば)が散り敷いていた。
いくつになっても稚気の抜けぬ愛犬パンチ号にグイグイと腕を引かれて歩くうち、私は北斜面を見下す一角に愕然と立ち止まった。
天然の書割をなしていた松の中でも、とりわけ太く、とりわけ枝振りの立派であった赤松が、根こそぎ倒れているではないか。
老松(おいまつ)は周囲の草木をなぎ倒して、まるで鎧武者(よろいむしゃ)が討死ぬように死んでいた。
パンチ号を山中に放ち、私は死せる老松のかたわらでしばらく考えこんだ。
松は夜来の大風に倒されたのであった。
樹齢は4、500年も経るであろうか。ぼきりと折れた根元の幹は、樹芯が空洞になるほど朽ちていた。
老樹とはいえ、400年は松の天寿ではなかろう。おそらく崖下を走る車の排気や、工場の排煙や汚水や酸性雨が、その寿命を縮めたのだと思う。急勾配の足元には造成地が迫っており、長年の風雨のために山肌はあやうく削られていた。
しかし老松は、おのれを繞(めぐ)るそうした苛酷な環境への不満などおくびにも出さず、たしかに大風になぎ倒されるその前日にも、雄々しくそびえ立っていた。
彼の物言わぬむくろを見つめながら、私はもうひとつ深い感銘を受けた。
あの戦争も公害もその身に受け止めてきた
それまで気付かずに見落していたのだが、老松の幹のちょうど膝の高さのあたりに、樹皮を削り取った古傷があった。50センチ四方ほどの正方形に、厚い皮がそぎ落とされ、樹芯が露出していたのである。年月を経て切り取られた樹皮は丸くかばわれているが、かばいきれぬ樹芯には、鋭利な刃物でさらに無数の傷が刻まれていた。
私には、その酷い傷痕が何であるかわかった。第二次大戦末期、松の樹芯から油脂を採取し、航空用の代用燃料としたのである。倒れた老松の根元の傷は、その松脂(まつやに)の採取痕にちがいなかった。
三年ばかり前、戦争末期を舞台とした長篇小説を書いたことがある。
かつて勤労奉仕をなさっていた女学生のみなさんから、さまざまの取材をさせていただいた。
三鷹のある航空機工場に動員されていた女性が、そのことを教えてくれたのである。爆撃で工場が破壊されてしまったあと、15、6歳の女学生は在郷軍人に引率されて近辺の松林をめぐり、松脂を採取したのだそうだ。
多摩丘陵は立川の工場地帯から近く、三鷹市を中心とした武蔵野工場群ともそう遠くはない。おそらく工場を失った少女らは、多摩川を渡って丘陵地に至り、毎日松の根を削っていたのではなかろうか。
そのとき彼女が記憶を掘り起こして説明してくれた松脂採取の方法は、まちがいなく私の足元に横たわった松の傷痕と一致した。
この老松は、刀折れ矢尽きたあの戦(いくさ)の末期、生命の樹液をしぼり出して飛行機をとばしていたのである。
もちろん私に、そういう戦のありかたの是非を論ずる気はない。
しかし彼もまた、私と同じ日本に生まれ、日本に生きたひとつの命であったのだと思ったとき、私はそのむくろに掌(て)を合わさずにはおられなかった。
五十年前のある日、校舎を焼かれ、工場も焼かれた少女たちが山にやって来た。たぶん心やさしい彼女たちは、ごめんなさいと囁(ささや)きかけながら松の根に刃を入れたのだろう。物言わぬ松は、それすらもおのれの務めとして生命の樹液を少女らに与えた。そして──そのわずかな油を片道の糧(かて)として、大空に飛び立って行った若者たちもいたことであろう。
想像はそんなふうに膨らんでしまった。
若者たちは死に、少女たちは老い、戦を知らぬ小説家が、無責任な戦争小説を書く時代になった。その間、50年の有為転変(ういてんぺん)を、老松は武蔵野を見はるかす高みから、どのような気持ちで見続けてきたのであろう。
たぶん彼は、おのれの生命を真に脅かす車の排気も工場の排煙も、迫りくる宅地の造成も足元に投げ捨てられた塵芥(じんかい)も、むしろ微笑みながら、わが身に受け止めたのではあるまいか。
そう思えば、太平の世に生きるわれわれの苦悩など、彼が草むらにこぼちちらした一片の松葉にも如(し)かない。人類が万物の霊長であるなどという考えは、ただ二本足で歩くことのできる生物の思いあがりであろうと思う。
しばらく思いめぐらしたのち、口笛を吹くとパンチ号が山中から駆け戻ってきた。
動物を馴致(じゅんち)しようとすることの愚かしさを感じ、社会のきまりごととはいえ、首輪に紐をつけることにもとまどいを覚えた。
振り返ると、幾百年の風雪に耐えた木々が、緑や紅の枝をたわませながら私を見送っていた。
環境保護が叫ばれている。だがわれわれ人間がよりよく生きんがためのそれは、何ひとつとして真の成果をもたらすことはないだろうと思う。要は、人間が生物それぞれの尊厳を確認し、その生き方に同じ生物としての敬意を払うことであろう。
きのうまで老いた赤松がそびえ立っていた崖には、秋空がぽっかりと豁(ひら)けていた。
彼のむくろの上には音もなく朽葉が散りかかり、やがて雪が降りつみ、花がこぼれ、夏草が生い茂って行くのだろう。
彼は大風に倒されるその前日まで、おのれの傷痕を語らず、樹芯がすでに空洞となっていることすらも悟られず、400年の緑の枝を雄々しく広げてそびえ立っていた。
もしこのさき、人間としてそのような人生を送ることができるのなら、それにまさる生涯はあるまいと思う。
(初出/週刊現代1996年12月21日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。